2021年9月15日

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2021年9月15日

何の目的も持たず、何の成果も得られず、ただひと時を無為に過ごす時間が、後から思い返してみて楽しかったことなんてない。きっとそうだろう、と思って過去を振り返ってみたが、すぐに頭の中に蘇ってきた楽しかった思い出は、大した理由もなくやったことだらけだった。 今年の3月で27歳。 27歳で楽しかったこと。オッドタクシーの最終話でアニメならではの大仕掛けに驚いた時。ミュージック・ブレス・ユーでチユキのアザミへの言葉に嬉しくなった時。バドミントンの大会、優勝を決めるじゃんけん一発勝負に勝った時。  すぐに思い出せたのはこれだけ。これだけ?と思われるだろうか。私には充分すぎる。  最初の2つのように、ある作品に触れてそこから感動や教訓を得るというのは、賭けの側面が強い。映画、小説、舞台、漫画・・・どれをとってもなかなか時間がかかる作業であり、コスパは悪い。  一方、最後の1つは自分の意識次第ではいくらでも増やすことができる。そして「ひとまずやってみる」というのは、結果の良し悪しにかかわらず自分の糧になるものだ。  そもそも、自分が何かを得たいなら、自分で行動するのが一番早いのは当然だ。最初の2つも、自分が何かを得るために、何らかの作品を媒介とするのだから、そこから得られるものは当然少ない。  何が言いたいかというと、作品鑑賞は人生を薄める行為ではないのか、ということだ。人生とは自分自身が歩んでいくもので、他人の人生を傍観することではない。  ただ、自分ひとりでできないことを作中の人物が代わりにやってくれる。それによって、自分ひとりで何かをやる以上の喜びが得られるのであれば、それは人生を薄めることにはならない、という論理が考えられる。  確かにその論理は筋が通っているが、自分でやるのに比べて熱量が落ちてやいないか?と問いかけたい。何をするにもながらになりやすい現状が、人生を希薄にしていることを自覚しなければならない。  フィードバックとアウトプット。作品鑑賞においても必要なことではないだろうか。  こういう話をしたかったわけでは断じてない。普通に楽しかった思い出を挙げようかな、と思って書き始めただけなのに、開始10行で逸れていった。私の楽しいはどこだ。
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