愛を教えてくださって

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愛を教えてくださって

 もう姿の見えないお嬢様に向け一礼をし、静かにお屋敷の扉を開けます。するとそこには、当主様である旦那様が立ってらっしゃいました。旦那様は寂しそうな視線を扉の向こうへ向けた後、 「鈴蘭、ありがとう。お疲れ」  とおっしゃいました。その口調は、わたくしがこの家に来たときと寸分変わらぬ、優しいものでございました。 「とんでもございません。わたくしの方こそ、長い間、大変お世話になりました」  月宮家に来たのは、十四でした。  それから、もう十年。  随分と長いこと、このお屋敷でお世話になったことになります。  大金をはたいて、わたくしを見世物小屋から買ってくださったこと。  お嬢様付きの侍女として、ただの商品だったわたくしを雇ってくださったこと。  旦那様には感謝しかございません。ここに来なければ、わたくしはいったいどんな人生を送っていたのかなど、想像したくもありませんから。 「鈴蘭。君もひとりの女性として幸せになれることを、祈っているよ」 「……はい」  優しい旦那様の言葉に短く返事をし、そして使用人室として与えられた自室へ戻りました。わたくしがここにくることも、もう最後になるのでしょう。きっと。私物のないがらんどうの部屋を見ると、なんだか寂寥感が沸いてくるのがわかりました。しかしそれには気づかぬふりし、支給されたお仕着せを脱ぐことにしました。  白と黒を基調にしたお仕着せ。  それはわたくしがこの家に使用人として、そしてお嬢様の侍女として仕えるにあたっての証のようなものでした。白いエプロンのリボンをほどき、黒いロングのワンピースを脱げば、もう、その証は消えてしまいます。 「本当にお世話になりました」  そう言って、最後のボタンを外し、そして脱ぎ捨てた服を綺麗に畳みました。それを部屋に備え付けられたベッドの上に置き、薄い藤色のワンピースに着替え、私物を詰め込んだたったひとつの鞄を持って、部屋を出ました。ガチャリと音を立てながら扉を開け、そしていつの間にか手になじんでいた鍵を回せば、後ろから「鈴蘭」と名を呼ばれました。 「ああ、よかった。鈴蘭、まだいて」 「誠一郎様……」  すると、その部屋の外にいらしたのは、百合お嬢様の兄上──月宮家の次期当主様でございました。そもそもここは使用人の部屋が並ぶ階層。ご子息がいらっしゃるようなところではありません。驚きつつ、慌てて頭を下げようとすると、 「君はもう使用人じゃないんだから、そんなことしなくていいんだよ」  と笑いながらおっしゃいました。優しいのも、誰に対しても寛大なのも、このご兄妹はそっくりでございます。 「……ねえ、鈴蘭」 「はい、なんでしょうか」 「君は今、幸せなのかな?」  ──このお方は優しすぎるのでしょう。 「もちろんでございます。お嬢様に見つけていただいたとき、わたくしはあの小屋で一生を終えるのだと思っておりました。なのに、わたくしが殿方に嫁げる日が来るなど……。旦那様やお嬢様、誠一郎様には感謝しかございません」  そう言えば、目の前に立っていたこの優しき次期当主様は悲しそうに眉を顰めました。 「……僕は、好きな人と結婚できた」 「はい」  誠一郎様はずっと幼い時から、幼馴染であった若奥様のことを大層好いていらっしゃったというのは、周知の事実でございます。初恋を貫き、みなに見守られ、そしておふたりは成人したと同時に結婚されたということも。わたくしがこのお屋敷に来る前にすべては終わっていたため詳しいことはわかりませんが、ただ結婚から年月を経てもおふたりがとても仲睦まじい夫婦であるということは存じ上げておりました。 「だから、好きな人とずっといられることの幸せも喜びも知っているんだ。……そしてね、それを家族にも知ってもらいたいと思ったんだよ」 「……はい」 「鈴蘭。僕は君のことも、百合と同じように家族だと思っているよ」  それは思いもかけないような言葉でした。 「……え」  わたくしの口から零れ出たのは、意味のない一文字。それに小さく笑った誠一郎様は、再び口を開きました。 「……あの日、百合があの見世で君のことを見つけてなくても、その後ろにいた僕がきっと君を買っていたよ」  あの日、確かにお嬢様の後ろには、誠一郎様と若奥様がいらっしゃいました。  あとで聞いたところによれば、お嬢様はお屋敷を抜け出して、近くの神社で催されていた祭りに遊びに来ており、それを探しに来た誠一郎様ご夫妻に見つかったのだとか。お嬢様がいないということで、お屋敷中がひっくりかえるような大騒ぎだったと、いつかの日、誠一郎様は笑っておっしゃっていました。 「……それは、嬉しいことにございます」  透明になりたいと願っていたわたくしを、見つけてくださる方がいるなんて。なんとも信じられないことでした。 「いいんだな? 今なら、ぎりぎり引き返せると思うけど」  それは最後の確認でした。  お嬢様とわたくしの輿入れが決まったあと、誠一郎様は幾度となくこの質問を繰り返しておりましたが、きっとこれが最後でしょう。 「はい。わたくしが願うのは、お嬢様の幸せのみにございます」  わたくしのいっとう好きな方。  いっとう大事な方。  その方があの太陽のような笑顔を浮かべられるのが、なによりの望みでございますから。  そう含ませた言葉を返せば、誠一郎様は「わかった。鈴蘭、幸せにね」と一言を置き去りに、その場を後にされました。 「……ありがとうございます、誠一郎様」  誠一郎様の影が見えなくなるまで、深く深く頭を下げてました。  全ての感謝の意を込めて。  荷物を持ち直し、そしてお屋敷の長い廊下を進んでいきます。お屋敷が広い分、廊下も長く、部屋の数もかなり多くございます。その一つひとつに思い出が宿っており、どうにも寂しさが募ってしまうのは仕方ないのでしょうか。    窓から見える中庭。そこはお嬢様が好んでお茶をされていた場所。  赤褐色の扉で閉じられた旦那様専用の書斎。お嬢様が学校でひどい成績をとってしまったとき、決まって答案用紙を隠しておられた場所。そういえば、旦那様は全て見つけられたのでしょうか。  いつだって美味しそうな匂いが漂っている厨房。お転婆なお嬢様がよくつまみ食いをして、お抱えの料理人に怒られていた場所。「焼き菓子をつくっていると、高確率でお嬢様に食べられちまう」と嘆く同僚を何度見たことでしょう。  そして、白いかわいらしい扉の部屋。もう主人が帰ることのない場所──お嬢様の部屋。ここには思い出が溢れすぎておりました。わたくしが初めて淹れた紅茶を美味しそうに飲んでくださったのも、初めて髪を結わせていただいたのも、熱を出されたお嬢様を夜通し看病したのも、すべてこの部屋でした。 「……お嬢様、わたくしはあなたと出逢えたことを大変うれしく思います。鈴蘭という名前をくださったこと、大変ありがたく思います」  お嬢様の部屋の前で深く一礼をしてもなお、わたくしの中にはなにかもやもやとしたものが残っておりました。お嬢様への想いを吐き出しきることなどできないということなのでしょう。いくら言葉を紡いだとて、きっと吐き出しきることはできないのでしょう。本当の想いをお嬢様本人に伝えられるそのときまで、ずっとわたくしの中にとどまったままなのでしょう。  でも、 「鈴蘭。私はとっても幸せよ。……家族のために、良き縁をもたらせるのですから」  そう言って、この家を去っていったお嬢様の決意を踏みにじることなど、どうしたらできるでしょうか。  少なくとも、わたくしのたったひとつの言葉で何かを歪めてしまうことなどできるはずもございませんでした。わたくしには、できませんでした。
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