彼女の待つ駅

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もう四十も後半に差し掛かった頃、わたしに彼女ができた。 ずっと欲しいと思っていたのだが、その願いはなかなか叶うことがなく、今まで生きてきた。。 だから、半ば諦めていた。そんな矢先の出来事だった。 しかし、わたしは彼女とすぐに離れ離れにならないといけなくなってしまった。 原因は仕事。転勤だ。それも新規事業立ち上げのために、しばらく地方に常駐しなければならず、おいそれとは戻って来れそうになかった。 わたしは職場に掛け合い、どうにか今の事業所にいられないかと頼み込んだ。 だが、職場は首を縦に振ることはなかった。 わたしに残された選択肢は二つしかなかった。 一つは退職。 もう一つは彼女と離れ離れで仕事。 正直、わたしはかなり悩んだ。悩みに悩んだ。それほどまでに彼女と離れ離れになるのが嫌だったから。 といっても、この年齢だ。転職、独立は難しい。だから、生活のことを考えると、仕事を辞めるという選択肢を取ることはできなかった。 それから、一年が経過した。 新規事業の立ち上げがひと段落し、ようやくまとまった休みが取れることになった。もちろ、彼女と対面するために使わせてもらう。 わたしは彼女の喜んだ顔を見たいがために、たくさんのプレゼントを買い込んだ。 わたし自身の荷物はリュックサック一個分だというのに、プレゼントは海外で何泊もできるような大型のキャリーケースと旅行鞄一個分になってしまった。 新幹線に乗ったものの、予約した席は一つで、かつ窓側だったため、荷物の置き場所がなかった。 結果、乗降口の前でずっと立つ羽目になってしまった。 しかし、後悔はない。彼女が喜んでくれるのなら、この程度のことは全然我慢することができる。 わたしは新幹線を降り、何度も乗り換えを繰り返した。それにしても東京という場所はわかりづらい。路線が何本もあるし、そこに至るまでの道も複雑すぎる。 でも、それも懐かしかった。 わたしは最後の乗り換えを終えた。この電車に乗っていれば、彼女の待つ駅へとたどり着く。 車窓から外を眺める。電車は東京から遠ざかるにしたがって景色がめまぐるしく変わる。 ビルが多数ある場所があったかと思うと、住宅街が現れ、やがて河川が現れる。かと思えばまた住宅街が、ビルが見える。 しかし、わたしはその久しぶりに見る景色を楽しむ余裕がなかった。自分の心臓がドキドキ、ドキドキと激しく鼓動を繰り返しているせいだ。 それは、彼女が待つ駅に近づけば近づくほど、激しいものになっていった。 彼女との連絡は毎日欠かしたことはない。 今はスマートフォンでテレビ電話ができるので、彼女の動く姿は毎日見ることができている。 だが、それはあくまでも四角い映像の、小さな小さな世界の話でしかない。やはり直接会いたい、直接触れたいという気持ちは常にあった。 その気持ちがようやく満たされる。その高揚感が、わたしの心臓の鼓動を速めていた。 反面、不安な気持ちもあった。 会いたいと思っているのは、自分だけではないかという不安だ。 彼女は本当にわたしと会いたいと思ってくれているのだろうか。 会えばわかることだ。だが、それを確認するのが非常に怖かった。 会った時に困った顔をしていたらどうしよう。手を払いのけられたらどうしよう。 不安や恐怖もまた、わたしの心臓の鼓動を速めている要因だった。 ふと気が付けば、彼女の待つ駅の一つ前の駅になっていた。 わたしは下車の準備を始める。次の駅までは三分程。停車時間は幾ばくも無い。いつもなら仕事カバン一つだから、駅に着いてから腰を上げたって降りられる。しかし、今日は違う。降りれなかった、などという笑えないオチを避けたい。 たくさんのプレゼントの詰まった、キャリーケースを引く。 ほどなくして駅へと電車が滑り込み、扉が開く。どうやらこの車両でこの駅で降りるのはわたしだけらしい。 わたしはキャリーケースを引きながら、電車を降りた。エレベーターで一階に降り、改札へと向かう。 自分の心臓の音に合わせるように、歩みがどんどんと加速していく。キャリーケースにプレゼントが詰まっていなかったら、キャリーケースを置いてでも全力疾走していたことだろう。 ここの角を曲がれば、改札だ! わたしは角を曲がる。すると改札の向こう側に彼女の姿を見ることができた。 ああ、なんということだろうか。 キャリーケースを引きながら、わたしはボロボロと泣いていた。 うれしくもあり、悲しくもある、色々な感情が混ざり合った涙だった。 わたしは改札を出るなり、彼女へと手を伸ばした。 しかし、彼女はその手を見るなり、わたしの妻の背後へと隠れてしまった。 「ほら、パパだよ。いつもお話してるじゃない」 彼女にとって、わたしはスマートフォンの中にいる存在だ。言ってしまえば、架空の存在に近い。 そんなわたしが目の前に人間として現れたのだから、驚くのは仕方ない。 まあ、ショックはショックだが。 わたしは膝を折り、彼女と視線の高さを合わせる。 わたしは、彼女がわたしに慣れるのを静かに待った。妻も同じように待ってくれた。少しだけ、彼女の背中を押しながら。 しばらくして、彼女はおそるおそる、たどたどしい足取りでわたしに近づいてきた。 妻に聞いたのだが、今月に入ってから、突然、歩き始めたのだそうだ。 その瞬間に立ち会えなかったことは非常に残念だった。でも、目の前で歩いている姿を、スマーフォン越しにではなく、自分の瞳で見ることができたのは、この上ない喜びだった。その喜びが涙となって込み上げてくる。 「……ぱぱぁ?」 彼女が目の前で小首を傾げるような素振りを見せる。 「そうだよ、パパだよ。こうやって直接会うのは久しぶりだね」 「ぱぱぁ!」 彼女はわたしの胸に飛び込んできてくれた。 わたしは彼女を抱き上げる。 ああ、なんて重いんだろう。新生児の時は軽くて驚いたというのに、たった一年で反対の感想を抱くことになるとは。 持ってきたキャリーケースやプレゼントたちよりはるか軽いはずなのに、それとは比にならないほど、重たかった。 わたしは彼女を抱き上げられたのがうれしくて、うれしすぎて本人が嫌がるまでずっと抱っこし続けた。
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