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「加代?」
青ざめた加代。向井の妻が肩を抱いた。加代、思わず口に手を当てた。
「私、知ってます。その『すみれ園』は。確かに心の病の人が入る施設のはずです」
「で、でも。どうして民子お嬢様が」
呆然とした三人。ここで向井が帰り道で思っていたことを口にした。
「あの早苗の策略だと思う。早苗にとって、民子お嬢様は邪魔だったものな」
「でもあんた。だからって、そんな施設に入れるなんて。勲さんが許すはずがないですよ」
「奥さん……多分、旦那様も騙されているんじゃないですか」
「これは……」
思ってもみない出来事。三人は言葉を失った。沈黙が支配するこの部屋。口を開いたのは向井妻だった。
「ねえ。勲さんに事情を話してみましょうよ」
「……それしかないな」
「でも。奥様の話を信用しているので、信じるでしょうか」
現在の勲は多忙。ゆっくり話をする時間がない。それに、証拠がなかった。
「それに、奥様が妨害すると思います」
「そうか。施設とグルなんだな。どこまで腐った女なんだ」
「そんな女を妻にした勲ぼっちゃまが悪いんですよ」
向井夫婦の話の中。加代は必死に考えていた。
「そうだ!あの向井さん。面会は一ヶ月に一度ですよね」
今は二十五日。あと五日で十二月。そうなれば向井が面会させてもらえると加代は言い出した。
「爺やさんが行く前に。向井さんが会いに行くんです!」
「あんた、そうしなよ。まずは民子お嬢様に会いに行かないと」
「わかった。そうしよう」
こうして。向井は十二月一日に民子に再び会いに行った。しかし、本人が体調が悪いと断られた。翌日に来ると予約したが、門前払いをされてしまった。
加代。この報告を向井の家にて聞いた。
「すまん。わしの力では入れてもらえん」
「いいえ……きっと、都合が悪い何かがあるんですよ」
「加代。どうしたもんかね」
十二月。仕事が多忙な加代。この時間も食事時間を削って向井家に来ていた。ここに出入りしていること。早苗に見つかったら問題である。加代、次の作戦を向井に託した。
「あの。二十日の日には、爺やさんが民子お嬢様に会いに行ってるはずです。その時、後を追うのはどうでしょう?」
「やはりそれしかないか」
向井の嫁も賛成したこの作戦。二十日の日に実行された。
向井は密かに三郎の後をつけた。彼は岸田病院に行かず、隣町の駅で降りた。
……どこに行くのだ?ここに民子お嬢様がいるのか?」
しかし。時刻は夜。彼は繁華街を慣れた足取りで進んでいた。そして一件のスナックに入って行った。ドアを開けた時、向井は店の中の声が聞こえた。
「いらっしゃい!二十日の旦那」
「おう。また来たぜ」
「ふふふ。どうぞ」
……二十日の旦那?というか、ここにお嬢様がいるのか?
しかし。ここは水商売の女の町。信じられない向井。思わずこの店の外にあった赤提灯の屋台に入った。そこで酒を飲みながら三郎が出てくるのを待っていた。
屋台の親父とたわいもない話をしていた時。それが起こった。
「おい。そいつを引き摺り出せ」
「おっさん。会いたかったぜ」
「な、なんですか?あんた達は」
外での揉め事。暖簾をめくり夜の騒動を見た向井。そこには見覚えのある男たちに絡まれた三郎がいた。
……あの男たちは。すみれ園にいた男たちだ。
入院患者が逃げないように見張っている男たち。物騒で乱暴なチンピラだった。その男たち。なぜか三郎を店から引き摺り出していた。
男たち。暗闇に爺を引っ張っていた。向井、赤提灯に金を払い、そっと後をつけた。ここで男達は爺を囲み出した。
「おい!てめえのところの娘。民子って女、施設を逃げ出しやがったぞ」
「え」
「お前が女と酒なんか飲んでいるうちに!それで、どうするんだよ!」
「わしは何もしておらんぞ?」
……民子お嬢様が逃げた?どういうことだ?
疑問だからけ。しかし向井はドキドキを抑えて茂みに隠れていた。
「ははは。確かにお前は何もしてねえな……」
そうだ、と爺は素直に頷いた。しかし男は低い声で続けた。
「毎月二十日に見舞いに来たふりをして。ここで女と酒を飲んでいたんだもんな」
「そ、それは。お宅の園長がそうしろと」
「うちの園長は……そんなことは覚えてねえってよ」
「そんな?」
囲まれた爺。顔面蒼白だった。チンピラは続けた。
「まあ、こっちはそんなことはどうでも良いんだけどよ。お前、どうするんだよ?見舞いに来てねえのに、金だけもらっていてよ。首になるんじゃねえのか」
「……」
「いや?首じゃ済まねえか?お前、嘘をついて金も貰っていたし。詐欺とか虚偽の罪で訴えられたら、お前、お縄だぜ?」
「う、嘘だ」
ここで。チンピラは優しい声で爺の肩に手を置いた。
「だから!お前にチャンスをやる。いいか……」
男。爺に囁いた。向井には聞こえなかった。爺は話をしっかり聞いていた。
「……ということさ。簡単だろう?」
「わしはそれをすれば。手錠を掛けられないんだな?」
「ああ。俺が保証するよ」
「旦那様にも言わないし、わしはあの店に行けるんだな?」
先ほどまでいた店。チンピラは優しくうなづいた。
「ああ。行ける行ける。今度は二十日じゃなくて毎日行けるぞ」
「……わかった。わしがやってみる」
話がついたようで。施設の用心棒達は去っていった。向井はじっとしていた。爺は静かになったが、やがて先程の店に戻っていった。向井はここで追跡をやめた。
……しかし、一体どういうことだったんだ?
今夜の出来事。誰にも見つからずに深夜に帰宅した向井。翌朝、やってきた加代に話をした。
「二十日の男?では爺やさんは見舞いになんか行ってなかったんですね」
「そのようだ。しかし、民子お嬢様は施設から逃げ出したと言っていたぞ」
「……きっと……そんな病の病院だから。お嬢様は逃げ出したんでしょうね」
でもどこにいるのか。加代にはわからなかった。向井の妻、涙目でお茶を出した。
「お可哀想に。きっとお兄さんに捨てられたと思ったでしょうね。実家にも帰れず、どこでどうしているのやら」
「加代。民子お嬢様が行きそうなところを知らないか」
「元従業員でしょうか。私にはこの向井さんしか思い当たりませんよ」
またもやシーンとなった家。加代は仕事があるのでひとまず帰っていった。店に戻ると、勲が忙しく動いていた。
「ただいま戻りました」
「あ?加代?手伝っておくれ。あの商品をしまわないと」
「……やりますけど、ところで爺やさんは?」
商品の伝票を持った加代。ふと気になった。それはこの仕事の担当の爺のこと。彼は店にいなかった。勲、何も知らずに答えた。
「ああ。なんでも飼い猫がいなくなったと申してな。探すので休みが欲しいと言い出して。急に休みだ?あいつには困ったもんだよ」
「飼い猫……ま、まさか」
手に持っていた伝票、加代、あまりの動揺でバサバサと落としてしまった。
「加代?ど、どうした?」
「旦那様……あの、心して聞いてください」
驚く勲。加代、勇気を出して民子の話をした。しかし、勲、笑い飛ばした。
「そんなバカな?だって私は毎月、民子のために高い費用を払っているんだよ?」
「でも」
「それに!きっと民子がいるのは岸田病院の病棟なんだよ。その『すみれ園』ではあるはずがない」
『すみれ園』のことは知っている勲。あり得ないと首を横に振った。
「ですが」
「加代。お前、まさか。うちの早苗がそんな施設を紹介したというのかい」
「……旦那様。一度、一度で良いです。文でも何でも良いので。お嬢様を確認してください」
「バカな?私は忙しんんだよ。あ?いらっしゃいませ」
店にやってきた取引業者。勲は笑顔で出迎えていた。加代。胸が寒くなった。
……奥様の紹介で良い施設だと思い込んでいるわ……ああ、どうしよう。
加代とて仕事が山積み。年末の仕事が次々とやってきた。心は民子を思っていたが、体は仕事へ向かうしかなかった。
その頃。三郎はすみれ園に来ていた。
……ええと。お嬢様はどこに逃げたんだろうな。
施設の用心棒に脅された爺。心は決まっていた。それは単純。民子を発見し、連れ戻すということ。そうすればまた二十日の日にあの店に飲みに行けると彼は信じていた。
実家で邪険にされていた民子。親戚を頼るとは思えない。それにひ弱な娘。金もないのに遠くへは逃げられない。
隣町の水商売の女の店を渡りあるいた爺。民子が女の町にいないのは知っていた。
……ここは。川のほとりにあるし。
民子、連れ戻されないように逃げたのではなく。隠れたのだと爺は思っていた。目の前の川。水深は低い。これを渡れば向こうは竹林だった。
彼の直感。民子はこれを渡ったと推測した。今は十二月。冷たい水を渡るつもりがない爺。遠回りをして竹林に進んだ。
迷路のようであるが、人が進む小道がある。田舎育ちの爺。この道を進んだ。やがて、聞き覚えのある声がした。
……あれか?ずいぶん、元気そうな娘だが。
別れた時は貧相な体つき。しかし、今、見えるのは元気に働く娘だった。
爺、様子を伺っていた。
よいしょ、よいしょとカゴに入れた薪を運ぶ娘。それはやはり民子に見えた。爺、後をつけた。彼女は小屋に入って行った。
「師匠!ただいまです」
「そんなに大きな声でなくとも聞こえるぞ」
「すいません」
「それよりも民子。お前、この籠の編み目、下の方間違っているぞ」
「ええ?もうすぐ完成なのに?」
……おお。紛れもなくお嬢様じゃ。こんなそばにおったとはのう。
小屋の位置を確認した爺。笑顔でこの場を後にした。師走の風は冷たく強く。竹林に住む二人に吹き始めていた。
完
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