三 見えない幸せ

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三 見えない幸せ

「おはようございます」 「ああ、加代さん。おはようございます」 荒物屋笹谷商店。奉公に来て長い加代。店の主人の代わりにこの日も店を切り盛りしていた。 下積みが長い加代。従業員の苦労を全て知っていた。この店、本来であれば笹谷の家族が店番である。しかし主人は多忙、嫁は散財し今は遊びに出てばかり。 そして笹谷の娘の民子は療養中で不在、今では主人の勲だけ。加代。優しい勲のために必死に店を守っていた。 店は繁盛している。余計なことをせず先代の教え通り基本通りに行えば良い。加代は鍛えられた経営感で仕事をこなしていた。 そんなある日のことだった。 「加代。相談があるんだが」 「旦那様?あとで顔を出しますね」 恥ずかしそうに頭を描く勲。加代、思わずドキとした。捨てたはずの片想い。それはまだ消えず心に燻っていた。 嫁は散財したため家を追い出す雰囲気の笹谷商店。そんな苦労の勲を影で支えた加代。全て恋慕う勲のためだった。田舎にも帰らず自分のこの努力。彼がようやく自分の事。気がついて欲しいという思い。それは蜘蛛の糸のようにまだ繋がっていた。 そして、仕事終わりの座敷で彼と話をした。 「実はその。お前も知っての通り。今の嫁とはもう無理なんだ。だから新しい嫁が欲しいと思ってね」 「そ、そうですね」 ……まさか。嘘でしょう? 恥ずかしそうな勲。加代。泣きそうになった。 「そこでお前、あのな、ちょっと聞きたいのだが」 「はい……」 「うちの奉公の絹子のこと、どう思う?」 「お絹……」 ……お絹……ああ。やはり…… 加代が可愛がっている後輩の絹子。まだ幼い顔の娘。勲、頬を染めていた。 絹子は確かに美人。反して加代はそばかす顔の赤ら顔。目の前の勲の好きな娘、それは自分ではなかった。 「ああ。そうなんだ。あの子は真面目だし。その、感じがいいから」 「……そうですね」 絹子は本当に良い娘。それは加代も認める。来たばかりであるが仕事も手抜きせず一生懸命。加代もそんな絹子が好きだった。 「どう思う?加代の意見を聞かせておくれ」 「お絹は、器量良しで。素直でいい娘です」 「だろう?」 嬉しそうな勲。加代。そっと目を伏せた。勲は相談を続けた。いきいきと話す彼の嬉しそうな顔。加代、笑顔で聞いていたが心では泣いていた。 「だからその、なんとか取り持ってくれないか」 「わかりました」 大好きな人の頼み。それはこれである。残酷な願いを受けたこの加代。彼の恋が実るよう、手伝いをするとうなづいた。 その夜。自室からそっと月を見上げた。 ……やっぱり。私じゃ、ダメよね。 笹谷商店の嫁も娘も美人だった。そんな美女ばかりに囲まれていた勲。綺麗なもの、美しいものが好きだった。 奉公人の加代。地味な顔、重ねた年齢。若い絹子に敵わなかった。 密かに偲んだ加代の恋。勲に届けとどんなに願ったことであろうか。 ……どんなに努力しても。顔や素性は変えられない。旦那様にとって私は、従業員以外、何者でもないのだわ。 どんなに尽くしても。どんなに支えても。それは彼にとって当たり前のことなのか。女としては決して見てもらえぬこの身。彼の妻になりたいなどそれは叶わぬ夢。願うだけ無駄な淡雪の恋。加代、今宵も悲しみの涙を流した。 この日以来。勲は身近な仕事に絹子に頼むようになった。何も知らぬ絹子。仕事だと思いこなしていた。 そんなある日。外出の仕事に絹子を連れて行きたいと勲は言い出した。 「どうであろうか」 ……お酒も出る会合で、まだ離縁もしてないのに幼い絹子を誘うなんて。 頬染める勲。絹子が好きなのは十分わかる。しかし男の勝手な行為。人の心が読めない勲。加代には悲しかった。 「……では、本人に言い聞かせますね」 加代。仕事中の絹子を呼び出した。 「お絹や」 「加代姉さん。どうしましたか?」 「お絹。相談があるんだよ」 加代。絹子をじっと見た。 「明日の会合に、旦那様はお前と一緒に行こうとしているけれど。そこは仕事の話なんだよ」 「ええ?私には無理です」 戸惑う田舎娘の絹子。彼女は美麗であるがまだ幼い。 ……そうでしょうね。何も知らない絹子には可哀想だ。 何もわからず不安であろうと思った加代。絹子に微笑んだ。 「ああ。だからね。お前は明日、お腹が痛くなってことにしてくれないだろうか?そうしたら、私が行くから」 「でも、加代姉さんが叱られないですか?」 絹子もまた家族のために奉公に来ている娘。優しい素直な絹子。加代、昔の自分を見ているようだった。 「私のことなら……平気だよ。お前は明日、寝込んでいれば、あとは私がやっておくから」 絹子とて大人の社交場になど行きたくもない。この商店で店番をしていた方がずっと気が楽だった。それを知る加代に絹子はホッとした。 「わかりました。加代姉さんのいう通りにします」 こうして当日。絹子は腹痛となった。代わりに加代が一緒に行くことになった。 「お待たせしました」 「ん?お前は加代か」 「はい。おかしいですか?」 「いや、その」 勲の嫁が気にいらないと屑籠に捨てていた化粧品。加代はこれを用いて化粧をしていた。そばかすや、あから顔は見えない。髪型と眉を整え微笑んでいた。 「旦那様?」 そして。以前、民子からもらった着物。これを着ていた加代。品よく決まっていた。 「お前。その着物は?」 「これは、民子お嬢様のお下がりです」 「そ、そうか。まあ行くぞ」 「はい」 こうして加代。勲のお供として会合に向かった。乗っていた人力車。二人だけの外出だった。 「しかしだな。お前とこうして出かけるのは初めてだな」 「そうですか?以前。旦那様と一緒に取引先の酒屋さんのお葬式に出かけましたよ」 「そうだったっけ」 ……私のことなんか。覚えてるはずないか。 「旦那様はお忙しいですものね」 「あ、ああ」 そして。会場に着いた。この日は地元の会合、珍しく夫婦で参加というものだった。 「あ?笹谷さん。どうも」 「ああ。その節はお世話になりました」 「ん?後ろにいるのは嫁さんじゃない……おお?加代さんか」 「はい。今夜は私が代理です」 勲が言わないうちに。加代はそう説明していた。地元の人ばかりの今宵。普段、店先にいる加代は参加者全員の顔を知っていた。 丁寧に挨拶して回る加代。この日の化粧を褒められた。 「本当に加代ちゃんかい?誰かと思ったよ」 「いやですよ奥さん。ちょっとお化粧で悪戯しただけです」 恥ずかしそうに笑う加代。元々はそばかすとあから顔だけで、目元涼しい娘。肌も滑らかで美しく何よりも仕草が優しく品よかった。 笹谷の嫁が夜遊びをしているのは周知の事実であるが、誰もそれを口にしなかった。加代、取引先の奥方に尋ねた。 「ところで。奥様、先日のお買い上げのお鍋はいかがでしたか?」 「ああ?あれかい。あの大きさで良かったよ」 「良かったです……形がどうかと気になってました」 売った商品について話す奥方と加代。それを男衆が見ていた。 「なあ。笹谷さんよ。あの加代はもう奉公は終わっているんだろう」 「ええ。今は再雇用です。ちょっと人が足りないので」 「だったら。私がお宅の使用人を見つけるから。加代をうちにくれないか」 「へ?」 真顔の味噌屋の老主人。息子の嫁に欲しいと言い出した。 「お前さんには嫁さんがいるだろう。それにあの加代も行き遅れだ。うちの次男の嫁に欲しい」 「加代を?でも」 「使用人を二人つけよう!な?それで決まりだ」 強引な味噌屋の大旦那。そう言って他の客のところに行ってしまった。 「そんな」 「旦那様?どうしたんですか」 顔色の悪い勲。加代、顔を覗き込んだ。化粧をした顔。その瞳は綺麗に輝いていた。 「い、いや?なんでもないさ。きっと、酔っていたんだ」 「何のことですか?それよりも。向こうで醤油屋さんのご主人が瓶の話で」 「どこだ?一緒に行こう」 思わず勲。加代を取られまいと腕を握った。加代、胸がときめいた。 ……ああ。嬉しい。嘘でもこうして。夫婦のように過ごせて。 二度とない時間。化粧の魔法のひととき。加代の初恋、勲への想い。日頃、彼へ尽くした成果のほんの少しのご褒美。大好きな勲の妻のような振る舞いができた夜の席。加代、嬉しさで心を充電していった。 そんな夢の時間は過ぎ。二人は笹谷商店に帰った。 そして一週間後。笹谷商店に味噌屋の主人が現れた。 「お?加代か。笹谷の旦那は居るか?」 「はい、奥にいます」 味噌屋の旦那は嬉しそうに加代を見つめた。 「とにかく。これからよろしくな!」 意味がわからない加代。首を捻っていた。その時、店の奥から声がした。 「ですから。あれは酒席の戯言。約束ではありません!」 「良いではないか?私は約束通り使用人を二人見つけたんだぞ」 「何ですって」 勲の驚きの声。味噌屋の主人の嬉しそうな声。店先にて加代は従業員と一緒に聞いていた。 つづく
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