三 見えない幸せ

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あまりの声の迫力。従業員は何事だと耳を立てた。その会話から加代が味噌屋に嫁に行く話とわかってきた。聞いていた従業員達はそっと加代を見た。 「加代ちゃん。その話は本当かい」 「いいえ?私は何も聞いていません」 ……そんなに私を、追い出したいの…… 妻になれなくても。せめてそばで勤務したいと思っていた加代。しかし彼は影で自分を追い出す約束をしていたと知った。ただ悲しかった。店奥からは味噌屋の主人の嬉しそうな声がした。 「笹谷さん。約束は約束だ。ではまた」 「そんな?困りますよ」 味噌屋の大旦那は強引な男で有名。一方的に話をし肩で風を切り店を出ていった。これをあっけに取られて見ていた従業員。呆然としている勲に尋ねた。 「旦那様。本当に加代を味噌屋に嫁に出すんですか?」 「……味噌屋さんが勝手にそう言っているだけなんだ。私はそんな約束をしてないよ」 「しかし。向こうは本気の様子でしたね」 「放っておけばいいさ」 逃げ腰の勲の様子。従業員はこのままでは終わらない予感がしていた。加代はただ不安にかられていた。 その後、町では加代が味噌屋に嫁に行く噂が流れていた。夕刻の部屋。勲は妻からお茶を勧められていた。 「あなた。あの加代を嫁に出すの?」 「……味噌屋さんが勝手にそう言っているんだ。私は承知してないよ」 「でも。火のないところに煙は無いって言いますもの。加代を嫁に出さないと、あなたは嘘つきになりますよ」 「くそ!どうすればいいんだ」 頭を抱える勲。寄り添う嫁。蛇のように笑った。 「いいじゃないですか?嫁にくれてやれば。あんな古い従業員、こっちも迷惑ですから」 「しかし。加代がいないのでは店が回らない」 いいえ?と妻は微笑んだ。 「二人も使用人が来るなら回ります。それに、私も心を入れ直し頑張りますよ」 店の金を散々使った嫁。今はその金も寂しくなっていた。そのため仕方なく商店の仕事をしようという自分勝手の行為だった。 「ね?あなた」 美しい嫁。優しい言葉。美麗な顔、自分好みのその大きな目。大好きなはずだったのに、今は遠い気がした。 「……店に行ってくる」 「そう?わかったわ」 店先に出向いた勲。そこで必死に働く加代を見た。 化粧してない顔。見慣れた安心した顔。いつもそこにいると思い込んでいた彼女。その加代がいなくなってしまう。勲、やっとその意味に気がついてきた。 「加代、話があるんだ」 「はい」 そして。奥の座敷にて二人は話をした。 「というわけだ。味噌屋さんは酔っていたと私は思ってしまったんだ」 「そうでしたか」 「だから。この話は断る!」 「……そう、うまく行くでしょうか」 加代。俯きながらぽつと話した。 「これだけ噂になってしまって。もし断ったら。旦那様が嘘つきになりませんか?」 「しかし、私は約束した覚えはないんだよ」 「でも……嘘も言い続ければ、本当になる世の中です」 「加代?」 俯く彼女、声を振るわせていた。いつも元気で自分を励ましてくれる加代の弱った姿。これを見るのは初めてだった勲。その細い肩が震えているのをただ見ていた。 「それに、約束を破ったと、うちの看板に傷が着くのではありませんか」 「では。お前は嫁に行くというのか?あそこは金があるが次男は酒浸りで。仕事などせぬと聞いておるぞ」 最初から勲がはっきり断っていれば良かった話。これを言いたいのを加代は必死に答えた。 「でも。加代がここにいても、居場所はありません」 「加代……」 嫁がいる。お絹がいる。そして美人の民子も戻ってくる。仕事だけが取り柄であるが、それは他の人間でもできること。行き遅れで不美人の加代の価値。ここでは皆無になった。 加代から。ポツポツと涙が畳に落ちた。 「今更、田舎に帰っても。行き遅れで誰も嫁にはもらってくれません。もし行ったとしても、知らない農家や後家さんです。だったらまだ味噌屋さんの仕事の方が、私にはできそうです」 「お前、それで良いのか」 良いわけがない。しかし、加代は悲しみを押し込んだ。握った拳には爪が食い込んでいた。 ……私が旦那様にできることは、これしかないもの。 願うは勲の幸せだけ。加代にはそれだけだった。 「はい……」 「では。話を進めるぞ。良いのだな?」 良いも悪いも。選択肢がない彼女。儚い自分の運命に悲しく笑った。 「はい」 「では……味噌屋さんと協議する……では、仕事に戻りなさい」 「はい」 勲。そう言って加代を店番に帰した。彼とてこれしかできずにいた。 ……くそ。何故だ?なぜ大切な人がいなくなってしまうんだ。 大切に育てられた苦労知らずの勲。両親を亡くし妹が不在。古い従業員は解雇してしまい孤独。 選んだはずの嫁は金目当て。自分は社交的な交際が主な仕事で、細かい経営は向いていない。勲、後悔しても時間は止まらない。やがて味噌屋と正式に加代との結婚話が進んでしまった。 「いや。良かった。加代が承知してくれているとは」 味噌屋との協議の席。安堵している味噌屋の手前。勲、何気なく話を振った。 「味噌屋さん。その前にですね。お願いがあるのです」 「なんですかな」 「加代は奉公に来て、しばらく実家に帰っていないのです。あまりにも気の毒なので、嫁入り前にしばし故郷に帰してやりたいのです」 「近いのですか」 「隣の県です。どうか、一つ、お願い申し上げます」 加代のため、勲は頭を下げた。この姿、味噌屋も納得した。 「良いでしょう。加代も親御さんに結婚の報告をしたいでしょうし」 「ありがたいです。加代も喜びます」 胸を撫で下ろした勲。その真意を知らずに味噌屋は帰っていった。 この夜。勲、加代を呼んだ。 「加代。良いか?味噌屋さんにはお前を実家に帰省させると言って、納得してもらった」 「はい」 「だがな。お前は帰ってくるな」 「はい?」 勲の必死の顔。加代、見つめた。 「こっちはいいんだ。今回の結婚。お前は田舎の親に反対されて、向こうで誰かと結婚したといえばそれで良い」 「ですが?それでは旦那様が」 対面が潰れるのでは?恥になるのでは?加代は驚きで勲を見た。勲は必死だった。 「良いんだよ?私ことなんかどうでも……そして」 勲。そう言って箪笥から封筒を出した。 「これは?」 「持っていけ!加代。あのな。今までこの家を支えてくれて、本当にありがとうな」 「旦那様」 金を押し付ける勲のその面差し。まだ結婚前の少年の顔になっていた。あの頃の純情で妹思いの彼。その時の顔に戻っていた。加代、涙があふれて来た。勲は必死に続けた。 「少ない手当ですまない。だが、それを持ってお前は田舎に帰るんだ」 「ですが……そんなことをしたら。旦那様がお困りになります」 加代を逃がそうとしている勲。彼の心。加代、声を震わせた。 ……やっぱり、旦那様は旦那様だったんだわ。 根は正直なお人好し。加代、勲の優しさが嬉しく胸を激しく揺さぶった。勲、笑顔で加代を見つめた。 「加代は何も気するな。俺が全て悪いのだから。明日の朝、それを持って早く帰れ」 勲の作戦はそれで良いのか。加代は迷った。しかし初めてみせた勲の決断。今は彼のいう通りにしてみようと加代は思った。 「わかりました。では加代は実家に帰ります」 「ああ。そうしてくれ。戻って来てはならないよ」 「……はい。旦那様」 加代。彼にスッと頭を下げた。その顔は涙でぐちゃぐちゃだった。 「長きに渡り……お世話になりました」 「ああ。そうだな」 互いに涙声。聞いていた勲の肩も震えた。幼ない頃から一緒に過ごした勲と加代。そして民子。仕事以外も楽しい思い出もたくさんあった。 「旦那様。加代は、加代は……お優しい民子様と旦那様が、好きでした」 やっと打ち明けた昔年の想い。勲、涙顔でその肩に優しく手を置いた。 「そうか。俺もな。お前が好きだったよ?加代……」 最後は笑顔の二人。この夜を終えた。翌朝早く加代は笹谷商店を出た。親しくした従業員にも何も告げない別れ。加代、勲のために実家の田舎へと帰っていった。 ◇◇◇ 「ねえ。あなた。この商品はどこに置くんですか」 「値札を見ればわかるだろう。お前は何度言えばわかるんだ」 「……申し訳ありません」 ダメな嫁にしっかり指示を出した勲。加代が去った商店。勲はようやく主人として自覚を持ち、切り盛りをしていた。 加代にこんなに仕事をさせていたのかと、反省の日々。忙しさで絹子のことなど全く気にしなくなっていた。 ここに味噌屋の主人が顔を出した。 「笹谷さん。その後、加代はどうしたんですか?まだ帰って来ないのですか」 「ああ。そのことですが。私も文を出したところです。しばらく返事を待ってください」 「……本当ですよ。こっちは待っているんですからな」 味噌屋の大旦那の催促。しかし。加代は帰ってこない作戦。この文を出したのも嘘だった。この時。従業員の小僧がふと呟いた。 「旦那様。どうして味噌屋さんはそんなに結婚を急いでいるんでしょうね」 「ん?何だって」 「ああ。旦那様。おいらには味噌屋の大旦那様がとても結婚を急いでいるように思えて仕方ないんです」 「確かに……」 勲も考えた。味噌屋は金持ちである。このため嫁など金を使えば容易に来る家。加代は働き者であるが、なぜにそこまで彼女に固執するのか。 ……娘なら。他にもいるであろうに。なぜ加代なんだ。 勲も気になってきた。小僧は勲におずおずと話した。 「おいら。探偵さんを知ってますよ」 「探偵?」 「はい。難儀な事件を解決してくれるって。八百屋の友達が話してました」 「……ではな。秘密にその人を呼んでおくれ。相談してみたいんだ」 「はい!」 小僧の紹介で彼はやってきた。下駄の着物姿。探偵は鏑坂幸ノ(かぶらざかこうのしん)と名乗った。 探偵料金は後ほどという話。彼は事情を聞くと素早く笹谷商店を後にした。 そして。三日後に報告にやってきた。 「もうわかったんですか?」 「単純でしたのでまずですね。ええと、味噌屋の次男、青源次郎(あおげんじろう)。彼は稼業を手伝っていると言われていましたが、そうではありませんでした」 「そうではない、というと、どういうことですか」 笹谷の奥座敷。仏壇がある部屋。勲。驚きで見つめた。 「飲んだくれという情報でしたが。彼はそれ以上です。酒を飲むとあまりに暴れるので。今は精神病院にいます」 「精神病院……では味噌屋にはいないのですね」 「はい」 本人はいないのに。何故か嫁を取らせようとする話。勲、不思議だった。探偵はスラスラと続けた。 「古い従業員に聞きましたところ。何でも教えてくれました。ええと、あそこはですね。相続の件で揉めていまして。次郎さんも相続権があるそうです」 しかし。次郎は酒のよる精神の病。今の彼は相続ができない状況だと鏑坂は話した。 「それに次郎さんは入院しています。だから大旦那さんは、次郎さんに嫁を取って。そのお嫁さんに相続の手続きや稼業をさせようとしたんじゃないですか」 「だがなぜうちの加代なんですか?他にも働き者はいるでしょうに」 着物の袂に腕を入れる勲。鏑坂、ごもっとも、とうなづいた。 「調べましたところ。今までも味噌屋さんは次郎さんに若い娘を嫁に取っています。農家の娘さんや貧しい娘さんです。しかし、どの娘さんも行方知れずですね」 「そ。それはどういう意味ですか」 恐怖の勲。鏑坂、涼しい顔で手帳をめくった。 「しかしながら。ええと。一人だけ会うことができました。三番目のお嫁さんのツレさんです」 「どこにいたんですか」 「……病院です。入院をされていました」 探偵は悲しく話した。 「味噌屋さんでは味噌を運ぶ力仕事があるそうです。ツレさんも貧しい家から嫁に来たそうですが。この仕事中に事故に遭ったために家を出されたそうです」 「ひどい話だ」 「いいえ。彼女はまだ幸運というべきです。他のお嫁さん達は大旦那さんの折檻で、皆さん、家出同然で逃亡しているんですよ」 聞いていられない話。勲、顔色を青くした。鏑坂、封筒を出した。 「この中に。次郎さんが療育されている施設の資料が入っています。彼と同じく酒で体を壊した浮浪者にこれを聞きまして。施設に問い合わせましたら次郎さんは確かにそこにいました」 「本当なんですね。ああ。しかし、どうしたものか」 勲。これからどうしたら良いか。鏑坂の前で弱音を吐いた。事情を聞いていた探偵、冷めたお茶を飲んだ。 「差し出がましいですが。この資料を突きつければ良いのではないですか?入院している男に嫁には出せぬと言えばよろしい」 「ええ」 「では、探偵料の明細です」 彼はさっと請求書を出した。勲。これ以上の金を彼に払った。 「いいえ?自分はこの額で結構です」 「しかしだね」 「誰にも話は漏らしません。それに、また機会にお願いします」 探偵はそう言ってお茶を飲んだ。そして帰っていった。この翌日、勲は味噌屋に話をつけに行った。 「あの、すまない。大旦那さんはどこだい?」 どこかバタバタの味噌屋。従業員が答えた。 「……ああ?笹谷さん。実は次郎さんが亡くなったんですよ」 「ええ?」 味噌屋の従業員。忙しそうだった 「葬式でバタバタで。今はすいません」 「そうか。わかったよ」 話をするまでもなく。この縁談は終わった。今後の付き合いに角が立たぬよう、勲は次郎の葬式には香典を出した。 やがて加代。故郷から帰ってきた。 「本当に良いんですか?また雇っていただいて」 「ああ。こんな店で良ければいておくれ」 「ありがとうございます」 電報で呼び戻された加代。故郷では老齢の祖母の介護をしていた。家族の応援もあり笹谷に戻ってきた加代。勲から詳しい経緯を聞いた。 「そうでしたか」 「お前が我慢強くて働き者なので、向こうは嫁に欲しかったんだろうな」 しみじみ思い出す勲。この時、探偵の資料を持っていた。 「そうだ。これは不吉だ。燃やしておくれ」 「はい」 加代。言われるまま燃やそうと庭に出た。その時、確認しようと思った。勲はそそっかしいので違う資料がある場合があるからだった。 「精神病院『すみれ園』……すみれ園ってどこかで聞いたような」 耳に残っているこの名前。加代、目を伏せて考えた。この時、背後から声がした。 「加代姉さん」 「姉さん!」 「まあ?絹子に三平!ありがとう。またお世話になるわ」 絹子と小僧の三平。加代を姉と慕い背後から抱きついてきた。三人とも貧しい家の出身。赤の他人であるが姉弟のような関係。嬉し涙を流した。 「よかった……このまま会えないと思った」 「おいらも。姉さん。姉さん……」 「ごめんね。心配をかけて」 この時。加代は資料を燃やすのを後にした。封筒は胸に締まった。この時、笹谷商店にも秋の足音が近づいていた。 完
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