五 冷たい風

1/2
前へ
/32ページ
次へ

五 冷たい風

笹谷商店。加代が店に復帰し活気を取り戻してきた。嫁の早苗はまた遊び歩くようになった。夫の勲。そんなことよりも年末の商売に忙しかった。 商売は売り上げ傾向。従業員達もやる気にあふれていた。そんな木枯らしの日だった。常連の客がふと加代に尋ねてきた。 「そういえば、ここの民ちゃんは元気なのかい?」 「あ、はい」 近況は知らない加代。ひとまず話を合わせた。そういえば文ひとつ無い。思えばこの寒い季節、いつも咳き込んでいた民子。加代、彼女が達者なのか気になった。 加代、昼食の時、勲に尋ねた。 「旦那様。そういえば民子お嬢様はお元気なのでしょうか?」 「ああ。毎月、爺の三郎に見舞いに行かせておる。そこでは元気にやっているそうだ」 「そう、ですか」 ここで勲。仕事の顔になった。 「そうだ加代。夕方には大きな取引の客がくるんだ。ちゃんともてなしてくれよ」 「はい」 ……お仕事熱心なのは良いことだけど。 急に仕事が面白くなった様子の彼。主人として責任感に溢れ生き生きしている。しかし、その勢い、加代は心配していた。 この夜、加代は民子が使っていた部屋をそっと覗いた。 ……民子お嬢様の匂いがする。 部屋の明かりがなく月明かりだけ。今は誰もいない部屋。大事にしていた日本人形がそこでお留守番をしているだけだった。それを悲しく見つめていた時、ふと窓の外を誰かが通った。 ……またお酒を飲みに行くのね。ずいぶん、お金があること。 爺の三郎。見舞いに行った時のお駄賃で懐が暖かい様子。それは加代もわかった。三郎はちょっとオシャレをして飲みに出かけていた。この時、ふと加代は思った。 ……あの三郎爺やで。本当に民子お嬢様のお見舞いができているのかしら。 この老人の話だけを聞き、信じている勲。加代は急に胸騒ぎがした。あの手紙好きな民子が一通も連絡を寄越さないこの数ヶ月。機嫌の良い嫁の早苗。そして羽振りの良い三郎。これを信じ切っている主人の勲。加代。心臓がドキドキしてきた。 ……これは。一度調べないとならないわ。でも、どうしよう。 多忙であり早苗をまだ信じている主人。加代の心配を戯言と思うであろう。それに店はこれから繁忙期だった。 この夜。目が冴えて眠れなかった加代。翌日、買い物に行くといい、ある家に向かった。 「こんにちは」 「ああ。加代か」 「元気そうだね」 元従業員の老齢の向井夫婦。今は笹谷商店を辞めて夫婦で細々と過ごしていた。加代、信用できる向井に思い切って話した。 「向井さん。私、民子お嬢様が心配なんです」 「実はわしも何だ。あの早苗が見つけてきた療養所だしな」 お茶を飲みながら話をしていた時、向井の妻が言い出した。 「あんた。一度、お見舞いに行ってきたらどうだい?」 「わしがか」 「私からもお願いします」 「……そうだな」 加代が行くには体裁が悪い。しかし元従業員の向井。近くに来たのでちょっと顔を見るのに寄った、と見舞いに行くのが一番自然である。向井もうなづいた。 「わかった。わしも顔を見たかったし。行ってみるか」 「お願いします。ええと、民子お嬢様の療養先は、ええと」 加代。住所を控えてきた。これを向井に渡した。 「隣町の岸田病院、か」 「そう書いてありました」 「よし。わしは暇なんで、明日早速行ってみるさ」 こうして向井。加代に頼まれて岸田病院にやってきた。 ……本当にここなのか? 民子が好きな羊羹を持った向井。驚きでその施設の前にいた。窓には格子。玄関には門番。時折見える廊下の窓を歩く人。それは明らかに精神疾患の患者だった。 向井。入るのに躊躇われた。そこに施設から出てきた女性がいた。向井は慌てて捕まえた。 「あの、すいませんが」 「なんですか?」 「ここは。どういう病院なんですか」 「……精神病院ですよ」 この女性は看護婦。今から家に帰るところだと言った。 「え?でもその。そうじゃない人もいるんですよね」 「いません。みなさんそういう疾患の方ばかりです」 「ま、まさか」 青ざめる向井。彼女は腕時計を見た。 「もういいですか?では、これで」 「あ?待ってください」 呼び止めたが、彼女は患者の話はできないと言った。 「私の知り合いのお嬢さんは、咳を患って入っているはずで」 「若い娘さんはいますけどね。お見舞いを申しこんだらいかがですか」 看護婦はそう言って行ってしまった。向井は呆然としていたが、勇気を出し、岸田病院の玄関に入った。 「お見舞いですか?事前申し込みは?」 「いいえ。近くに来たのでちょっと」 「どなたに?」 「笹谷民子さんです」 「……お待ちください」 向井。事務員にしばらく待たされた。そして事務員は戻ってきた。 「実はですね。面会は患者さんの負担になるので、一ヶ月に一度と規則で決まっているんですよ。笹谷さんには今月、もうどなたかがいらしたので、今日はお会いになれません」 「……そこをなんとか。話ができなくても一眼見るだけでも」 「申し訳ありませんが」 向井。粘ったがダメだった。そして部屋から退室した。 ……ああ?そうだ。せめてお土産だけでも置いていこう。 民子のために持ってきた羊羹。向井はもう一度部屋の戸を開けようとノブに手をかけた。その時、部屋の中から声がした。 『院長。なんとかなりましたね』 『ああ。それよりも今後だな』 ……なんの話をしているのだ? 戸の隙間から見ると、部屋には恰幅の良い男がいた。隣部屋から入ってきたようで二人で会話をしていた。 『今日はなんとかなったが、早く見つけ出さないと』 『そうですね。また係を手配します』 ……どういう意味だ?訳がわからん…… ここで戸を開けて入ろうとも思った向井であるが。民子に何か危険が及ぶ恐れを感じた。向井、このまま知らぬ顔で施設を出た。 手に持っていた羊羹を包んだ風呂敷。それを渡せなかった向井。帰り際にもう一度、施設をしみじみ眺めた。そして歩いて駅まで戻ってきた。途中、遊んでいる少年達に出会った。向井、話しかけてみた。 「もし。お前さん達、岸田病院って知っているかい」 「岸田病院?」 「ほれ?あの白い建物だよ」 「ああ。『すみれ園』の方か」 一人の少年は知っていると遊びの手を止めた。 「なんだい?その『すみれ園』とは」 「岸田病院はね。治療をするのが駅前の建物。そして入院施設がその『すみれ園』だよ」 「ほお。入院する方を『すみれ園』と言うか」 「そうだよ。だってさ?誰もあそこに入院なんかしたくないだろう?だから患者には『岸田病院』っていうんだよ」 「お前さん、ずいぶん詳しいな」 向井。羊羹をあげた、少年は笑った。 「ああ、だって。うちのばあちゃんが掃除の仕事をしているから」 この時。羊羹を見ようと少年たちが群がってきた。 「俺も知ってる!あの病院はね。(じゅつ)は良いって評判なんだよ」 「そうなのか」 ……腕は良いのか。それならお嬢様はその駅前の病院におるのかもしれぬ。 ほっとしたのも束の間。少年達は大笑いをした。 「はっはは。それはね。『施術(せじゅつ)』よりも『算術(さんじゅつ)』の方なんだよ?はっはは」 「うちの父ちゃんも言ってた。金儲けばかりだって」 「算術……なんてことだ」 少年たちに羊羹を渡した向井。どうやって家に帰ってきたのかわからないほどショックを受けて自宅に帰ってきた。 夕刻であったが、ここには加代がいた。 「向井さん、お嬢様はどうでしたか?」 「……加代。これは一大事だ」 「あんた。どういうことですか」 顔面蒼白の向井。やっとの思いで打ち明けた。 「民子お嬢様には会えなかった」 「え」 「あんた、何をしに行ったんですか」 「黙って聞け!あそこはな。あそこはな……」 向井、必死に口を開いた。 「精神病院だったんだ」 「え」 驚きの加代。しかし、向井の妻は真顔だった。 「あんた。何をいうんですか。民子お嬢様がそんな所なんて」 「こんな冗談が言えるか?!あそこは病院ではない、『すみれ園』と言って心の病の」 「『すみれ園』……待ってください?待って」 どこかで聞いた言葉だった。加代、必死に思い出した。 ……どこだっけ?仕事の話……取引先……いや?違う。そんなんじゃない。 この間も向井は話を続けた。 「気が狂ってしまった人が、廊下をぐるぐるといてな?暴れる人は縛られて」 「ま、まさか。民子お嬢様がそんな」 「……気が狂う……あ?!」 思い出した加代。ブルブル震えてきた。 つづく
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2009人が本棚に入れています
本棚に追加