一 冷たい川のほとり

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一 冷たい川のほとり

民子(たみこ)さん。ちょっと」 「はい。お義姉さん」 嫁の早苗。店先で商品を並べていた民子を呼びつけた。 「この注文の品に、『のし紙』が付いてないわよ」 「え?私が確認した時、お義姉さんが要らないって仰ったので」 思わず事実を言った民子。早苗は真っ赤に怒りだした。 「また私のせいにする気?とにかくお待ちなのよ?謝ってきなさい」 「はい」 そして民子。店奥の会計に出向き、常連客に頭を下げた。 「すいませんでした」 「いいんだよ。民子ちゃん」 「本当に申し訳ありません!ええと。これは『内祝い』でよろしいですか?」 筆が得意な民子。美文字でのし紙に言葉を添えた。老人客は嬉しそうに帰っていった。 大正時代。東京の下町。金物や日用雑貨販売の荒物屋「笹谷商店」。兄は主人を務めている妹の民子は店の商品にはたきをかけた。その背後では兄嫁の早苗が腕を組んで睨んでいた。 民子はこの商店の看板娘。しかし、病弱でまだ嫁に行けない十八歳。嫁の早苗はそんな民子が邪魔だった。 「民子さん。その棚に埃がいっぱいあったわ。あなた本当に掃除をしているの?」 「は、はい」 毎日掃除しているのに。埃があるのはおかしい。しかし、早苗はほら!と嬉しそうに指に付けてみせた。 「こんなにあるわ。どこをどう掃除しているのよ?あなた、この店を潰す気?」 「そんな」 「この棚は全部やり直しよ!さっさとやりなさい」 「はい」 民子。今日もまた掃除をしていた。これを従業員達も見ていた。気立の良い民子は人気者。早苗はそんな民子を疎んでいた。 そしてこの夜。また兄夫婦は喧嘩をしていた。 「早苗。また着物を買ったのか」 「別に。いいじゃないのこれくらい」 「先月も新調したばかりだろう」 堅実の兄。浪費する早苗に眉を顰めた。ここで早苗は大声を出した。 「何よ!私は毎日働いているのに。そんなに私が憎いの?」 「そこまでは」 「あなたは民子さんには草履を買ってあげたじゃないの!」 「あれは。履物屋のご主人が、民子に似合うと言うので、安く買っただけさ」 「……民子、民子、民子。あなたはいつも妹を庇うのね」 生まれた時からこの家にいる民子。幼い頃から近所の人気者である。反して早苗、水商売上がりの女。純情な兄は言われるまま籍を入れてしまった経緯がある。この喧嘩、今夜も民子は聞いていた。 ……私のせいだわ。 本当は嫁に行くのが一番良い。しかし、病弱のため、まだしばらくは止した方がいいと医者に言われていた。両親も亡くなった民子。大切な兄を苦しめていた。 店の仕事は手伝っている。が、やればやるほど早苗が怒ってしまう。居場所がない民子。今夜も涙で枕を濡らしていた。 そんなある日。兄が話があると民子を部屋に呼んだ。早苗は美容室に行っている日だった。 「民子。お前に話があるんだ。よく聞いてくれ」 真剣な顔。兄は正座でまっすぐ話した。 「お前をそろそろ嫁に出してやりたいが。まだそうもいかない。俺としてはこの家で一緒にいたいが、早苗を見ると、そうもいかなんだ」 「ごめんなさいお兄さん」 実家なのに居られない。大好きな兄を苦しめている民子。その痛みにぎゅうと唇を噛んだ。 「お前が謝ることなんかないんだよ?だから、ここに行ってみないか」 兄が差し出したのは郊外の療養所だった。 「その施設は空気もいいし。お前の咳も出ないだろう」 「ここはどう言うところなの?」 「早苗の紹介でね。『すみれ園』と言ってね。うちのお客さんが経営している施設なんだ」 兄の説明では。民子のような咳が出る者の専用施設という話だった。信用できる兄の勧め、民子は受け入れることにした。 この家を出て、そして元気になり、きっと帰ってくる。民子はそう思っていた。 ◇◇◇ 汽車やバスを乗り継ぎ、民子は川のほとりの施設にやってきた。一人では不安であろうと珍しく早苗が優しい口調で付き添いとして使用人の爺やを付けてくれた。 「ここかしら」 「……はい、そうです」 その療養所。庭を歩く人はまるで廃人、窓の向こうに寝ているのは明らかに末期の老人。民子は悲鳴を上げそうになった。 「ささ。お嬢様」 「待って。本当にここなの?」 「はい」 早苗から金をもらっている爺や。必ず送り届けるように言われていた。恐ろしげな民子。戸惑いながらも病院に足を踏み入れた。 施設長。民子が持参した資料を読み、深くうなづいた。 「お話は聞いています。では、お付きの人はここでお帰りください」 「はい」 「爺や。行ってしまうの?」 「はい。お嬢様」 不安そうな民子。爺やは帰って行った。早苗から金をもらっている施設長。民子を看護婦に預けた。看護婦は冷たい顔で民子の体温を計り出した。 「あの。ここはどういう人が療養しているんですか」 「……」 するとぎゃああと叫び声がした。男の患者の声だった。 「あれは?」 「……はい。平熱。ではこの服に着替えなさい」 民子の話は無視の看護婦。廊下ではバタバタと切迫した足音がした。 「抑えろ!」 「逃げようたってそうはいかないよ」 「うわあああああ」 この大騒ぎ。民子は真っ青になった。しかし看護婦は全く微動にせず仕事を進めていた。 「着替えたら部屋を開けなさい。いいわね」 「……」 そう言って看護婦は部屋の外に出た。カチャンという音がした。 ……え?鍵をかけたの?私が出れないように。 看護婦が部屋に鍵を掛けたこの事実。民子は悟った。ここは想像していた療養先ではない。ここに入院しては出られない。冷や汗と共に咄嗟にそう思った。 ……逃げないと。 この部屋。格子が入った窓からは逃げられない。廊下には看護婦。きっとドアの向こうで待っている。 渡されたのは施設の病着。まるで刑務所の囚人服であった。全身汗だくの民子。逃げるのは今しかないと決意した。 民子。その時を待った。 「ねえ、まだなの。あ」 「ごめんなさい!」 入ってきた看護婦。着替えていない着物姿のままの民子。彼女を突き飛ばして倒した。そして廊下に出た。部屋の鍵を掛けて看護婦を閉じ込めた。 「誰か!患者が逃げたわよ!」 部屋から叫ぶ看護婦。廊下を逃げる民子。走りながら廊下の消防の非常ベルを押した。施設中がジリジリジリジリと鳴り響いた。 この時の民子。必死に玄関まで走った。そこには見張りの男が二人立っていた。 「貴様は!」 「私は見舞いの家族です!火事は中で、煙が出てます!」 「何?」 私服の着物姿の民子。この誤魔化しが効いた。見張りの男達は慌てて施設内に走っていった。民子。無我夢中で川まで逃げてきた。この施設は川の辺り。川の向こうは竹林だった。 ……行くしかない。でも普通に逃げれば捕まってしまうわ。 この川は木々が所々に生えている。ということは浅い証拠。追手はおそらく駅まで戻る民子を連れ戻そうとするだろう。だとしたら。その逆を行かないとならない。療養でやってきた民子。まさか追手も川を越えたとは思わないはず。 民子。草履を脱ぎ懐に入れ川を歩きながら渡った。この姿、見られるかと危惧したが、消防車がやって来た騒動で誰もこなかった。民子、滑り転びながら川を何とか越えた。 そして竹林に入った。どこまで続くか分からぬ青い林。背後の追手が怖い民子。ひたすらに走った。この竹の林。怖いくらい綺麗だった。竹の根が張っているせいか雑草も無い。まるで誰かが箒で履いたように整然としていた。 怖いくらい静か。どこまでも続いている景色。見上げても鬱蒼とした葉で空が見えない。方向もわからない。やがて疲れ果てた民子。へたり込んだ。そのまま竹を背に倒れ込んだ。 ……もう、おしまいだわ。お兄さんに、私は捨てられたんだわ。 疲労と恐怖。やっと現実に帰った民子、夜の竹林で絶望の涙を流していた。 ◇◇◇ ……さあ。篠竹(しのたけ)でも見てくるか。 竹細工職人の司。背に籠を背負い家の裏手の竹藪に入って行った。 まだ独身。竹の林に住む彼。作業着の藍色の着物、長い髪を横に流していた。材料になる篠竹を取るためいつもの竹林を散策していた。そんな彼、藪の中で女の着物を発見した。 ……脱走患者か。へえ?川を越えたのか…… 最近できた医療施設。その患者がこうやって脱走してくることがあった。司は関わりたくないといつも無視していた。 ……女が川を越えたのは珍しいな…… 精神に病がある患者の病院施設。女の脱走でここまで来た者はいない。感心しながらも今回も無視しようと見て見ぬふりで去ろうとした。しかしこの女。よく見ると病着ではない。黄色い着物姿。患者ではない可能性があった。 しかも竹林で倒れ混んでいる。一応、声をかけた。 「おい。お前」 司。藪の中の女に声をかけた。反応した娘。白い顔。身体中、擦り傷だらけであった。 「……やめてください!私は病気じゃないわ」 「生きているのか」 ……ではいいか。放っておこう。 司。彼女を無視して去ろうとした。民子、必死に彼の着物の袖を引いた。 「何をする?」 「助けてください。私は無理矢理あの病院に入れられそうで」 「俺には関係ない」 「待ってください。この通りです」 民子。立ち上がり必死に彼に頭を下げた。濡れた身体でボロボロだった。 「私は手違いでここにきたんです」 「言ったろう。俺には関係ない」 「で、では。駅の方向はどっちですか」 ……ん。この娘。病ではないのか。 泥だけらの足袋の足。傷だらけ顔で涙目の娘。髪も乱れてひどい格好だった。だが司、この時点でまだ彼女は脱走患者と思っていた。 「あっちだよ」 「あっちじゃわかりません。それに竹藪は方向がわからないんですもの」 「……説明しても。お前さんにはわかるまい。ここは深い竹林だ」 面倒な司。去ろうとした。民子、また腕を捕まえた。 「待ってください!それなら。川はどっちですか?」 「聞いてどうする。施設に逆戻りだぞ」 「夜に紛れて、川に沿って町に出ます。それしかないじゃありませんか」 涙の民子。司は彼女の目を見つめた。患者ではないのかもしれないと思い始めていた。 「川ならお前でも行ける。よく考えろ。川はどうやって流れているかを」 「え」 司。そう言って腕を払い竹林に消えてしまった。唖然とした民子。それでも必死に彼の言葉の意味を考えた。 ……川はどうやって流れているのかって。それは傾斜があるから、あ! この竹林。闇雲に歩いていたが、よく見回すと平らではなく傾斜になっている。川は低いところに流れている。民子、低い土地へ土地へ歩みを進めた。 すると。竹林を出て川に出ることができた。しかし、まずいことに施設のそばだった。 ……でも、まだ明るい時刻だわ…… どうやら今は夕刻。夜になってから川に沿って下流に行けばなんとかなる。民子はそう思って竹林に少し戻ろうと思った。 「おい」 「きゃああ」 急に現れた司。腰を抜かした民子を見下ろした。 「こっちだ。熊が出た」 「熊!?」 司。民子の腕を取り進みだした。その先の竹林の小屋。司はそこに民子を放り込んだ。 つづく
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