一 冷たい川のほとり

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「はあ、はあ。ここは?」 「静かに。そこにいろ」 司。小屋の戸を閉めかんぬきを掛けた。そして背負っていた籠を土間に下ろした。民子は安心と疲れで土間にへたり込んでいた。司、柄杓で水瓶の水を掬い、民子に渡した。 「飲め。そして顔を洗え」 「ありがとうございます」 「……血があると、熊が寄って来る」 そう冷たく話す司。部屋に上がった。水を飲み手や顔を洗った民子。まだ土間に立っていた。 「なぜそこにいる」 「上がって良いと言われていませんので」 じっと自分を見つめる娘。司、眉を顰めた。 ……どうやら本当に病ではないのかもしれないな。 竹林に放置したのに出てきた娘。これは賢い証拠。司は自分のした仕打ちに思わず眉を顰めた。 「……では。上がるな。そこにずっと立っていろ」 「はい」 職人の彼。厄介事は嫌いだった。今、助けたのも熊が理由。自分のせいで娘が食われたらさすがの彼も心が痛むから。ただそれだけであった。 そもそも。脱走患者が今回が初めてではない。最初は親切に助けていたが、患者に非があると知り、もうしなくなっていた。 しかし疲れた娘。汚れた体が辛そうにに立っていた。司、見ないように見ていた。そして、第二の可能性を確認した。 「お前。一体、何をした」 「どう言う意味ですか」 「あの療養所のいるのはな、家族が手を焼いた薬物中毒や廃人患者だ。お前も何か悪い事をしたんだろう」 「私は何もしてません!間違いで来たんです」 「……あそこはな、高額な預かり金が必要だ。間違いで来るところではない」 そう冷たく話す司。囲炉裏の炭を突いた。民子、涙目で立っていた。 「違います。兄は、兄はそんな事はしない」 「もういいから。熊が去ったら出ていってくれ。厄介ごとはごめんだ」 民子。ここで涙を飲んだ。そして頭を下げた。 ……そうよね。この人には迷惑だわ。 男の冷たい態度。確かにそうである。兄を信じた自分のこの状況。民子、もう覚悟を決めた。 ……やるしかないわ。もう、誰も頼れないもの。 「わかりました。お世話になりました」 「おい?外には熊がいるぞ」 驚きの司の言葉。民子。思い出したように懐から小刀を取り出した。 「これで、なんとかします」 「そんな小刀で?」 「旦那様、ありがとうございました!」 必死の顔の民子。戸を開けて出ていってしまった。司、あっけに取られていた。 ……本気か?くそ。 司。慌てて下駄を履き彼女を追った。疲れた女の足は遅く、川へ向かう女にすぐに追いついた。 「おい!」 「……きゃあ!」 熊だと思った娘。自分に両手で小刀を向けた。その目も手も、必死だった。 「旦那様ですか?す、すいません。熊だと思って」 「熊が話をするか?」 冗談気味に話した司。しかし娘の手は震えていた。 ……怖かったんだな。悪いことをした。 「……良いから刀をしまえ」 「で。でも。体が固まってしまって」 あまりの恐ろしさ。涙目の娘。自分でも掴む刀を下ろせない状態。司、責任を感じた。彼は優しく娘の指をほどき刀を収めてやった。 「すいません」 「……くそ」 ……ああ。何で俺がこんな事を? しかし。思いと裏腹。司。娘の腕を掴んだ。 「明日にしろ。帰るのは」 「でも」 「……俺よりも追手と熊を選ぶのか」 「嫌です!それは」 引き留めた司。結局、彼女を家に連れて帰ってきた。 ◇◇◇ 「そうか。お前は消防のベルを鳴らしたのか」 「はい」 「道理で消防自動車が来たと思った」 「だって。窓には格子があって。絶対出られないと思ったんですもの」 濡れた着物が乾いていた娘。ひとまず部屋に上げて囲炉裏の前に座らせた。お茶を出した司。民子はありがたく飲んでいた。 明るいところで見れば品の良い娘。彼女の派手な行動に司、思わず笑った。 「あの。旦那様、ここは?」 「私の家だ。作業場だな」 よく見ると。竹細工の籠がたくさん置いてあった。民子、それに見惚れていた。繊細に編まれた籠。頑丈に編まれた大きな籠。素晴らしい手作業の作品に見惚れていた。 「……綺麗。これは旦那様が?」 「別に。生活用品だ」 「これなんかも。細かくて、形が綺麗」 無骨な司の繊細な仕事。民子は息を止めて見ていた。この時、戸をどんどんと叩く音がした。 「おい!あけろ!ここに女がいるだろう!」 追っての怒声。民子。真っ青になった。司、済ました顔でスッと立ち上がった。 「……来い」 「え」 待っていたように立ち上がった司。怖い顔で民子の腕を取った。 「嫌です?私は行きません」 「し!黙れ」 嫌がる民子。司は有無を言わさず、部屋の床下の扉を開け、その床下に民子を放り入れた。 「痛い……ってあれ?ここは部屋?」 半地下になっていた部屋。自分が放られた場所には空間があった。 「良いか、そこで声を立てるなよ」 司の真顔。民子、うなづいた。 「はい」 蓋をした司。その上にさっとゴザを引き作りかけの竹細工の籠を置いた。そして下駄を履いた時、そこにあった娘の雪駄を(かめ)の中に入れた。そして戸を開けた。 「なんだ。お前達、藪から棒に」 すまし顔の司。男達は血相を変えていた。 「おい、ここに女が来たであろう。匿ってもしょうがないぞ」 「足跡があったんだ」 警備の男二人。そう言って司の部屋をぐるりと見た。 「足跡?そんなもの知らん。それに毎回言っているが俺に関係ない」 「部屋を見せてもらうぞ」 土間から部屋に上がった男二人。襖の向こうの二つの部屋の襖も開き確認した。ついでに水瓶までのぞいた二人。娘がいないと諦めていた。 しかし。一人が囲炉裏端に目を置いた。 「ん。その湯呑みは」 「これか?これはな……」 ……あれは?私が飲んでいたお茶だわ?見つかってしまった…… 恐怖で目を瞑る民子。その指摘に司、ふうとため息をついた。 囲炉裏にあった湯呑みが二人分。まだ湯気が上がっていた。一つは民子が飲んでいた湯呑み。床下で話を聞いていた民子。泣きそうでドキドキしていた。 この時、司。またもや澄まし顔でこの湯呑みを手に取った。 「この神棚に置くところだったんだ」 そう言って神棚に置いた司。手を合わせていた。男達は舌打ちをした。 「……行くぞ」 「邪魔したな!」 そう捨て台詞の男達は帰っていった。心臓がドキドキの民子。しかし、静かになっても床の扉は開かなかった。 「旦那様?まだですか?」 「し!奴らはまだ外にいる。お前、今夜はそこで寝ろ」 大人しく帰ったふり。しかしまだ疑念は晴れていないと司は思っていた。 「ここで?ああ。でも」 民子。床の明かりが漏れてこの空間が見えてきたが、ここは低いが床下部屋になっていた。さらに布団まで見つけた民子。汚れた着物を脱ぎ、広げた布団に寝そべった。 あっという間に寝てしまった。 ……いい匂いだわ。 味噌汁の匂い。民子は目覚めた。いつの間にか地下室の戸は開いており眩しい朝日。その先の囲炉裏の鍋は美味しそうな湯気を立てていた。 「起きたか」 「おはようございます」 とっくに起きていた司。表情を変えずに動いていた。民子に手洗いに行かせた彼。戻ってきた民子にお椀に野菜たっぷりの汁を入れ、彼女に渡した。 「いいのですか」 「ダメなら渡さない」 「ありがとうございます。いただきます」 美味しい汁。民子は涙が出てきた。 ……二日も寝るとか。よほど疲れておったのだな。 本人は気がついていない様子であるが、民子は二日間寝ていた。途中、心配で水を飲ませた司のことも覚えていない様子だった。 彼女のことを実はすごく心配していた司。この心を隠し、落ち着かせようと竹細工の作業を始めていた。 「それを食べたら出て行ってくれ」 「はい。お世話になりっぱなしで、申し訳ないです」 「……行く宛はあるのか」 話を信じれば兄に捨てられた妹という身の上。しかし身なりの良い様子。頼れる親戚もいるだろうと彼は思った。民子。食べながら話した。 「行く宛と言いますが。私の実家の店に、求人の話があったので。私、それを念の為に持ってきてたんです」 よいしょと彼女は懐から紙を取り出した。万が一に備えて、民子は自力で生きていけるよう求人票を持ってきていた。 食べ終わった民子。水場でお椀を洗った。そして身なりを整えながらその紙を広げた。 ……ええと。一番ここから近いところ。これかな? 「旦那様。あの私、この住所の、この作業場に行きたいのですが。どこだかご存知ですか」 紙を受け取った司。それを読んだ。 「どれ……これは」 驚きの顔の司。民子は首を傾げた。 「ご存知ですか?」 「ここの事だぞ」 「え?」 司。ああと頭を抱えた。 ……親父の頃の求人だ。こんなものを持ってくるとは。 司の父親。現在は怪我で入院中。以前は大規模で竹細工を作っており、その職人を募集していたが、金銭トラブルに遭い、今はそれを精算し父と司だけ細々とこの小屋で制作していた。この民子の求人は昔のものであった。 「今はもう、求人はしてない」 「……もうダメでしょうか」 「ダメだ。女には無理だ。他を当たれ」 冷たい司。しかし、民子はこの竹細工にすっかり魅了されていた。 ……やってみたい。こういうお仕事を。 静かに黙々と竹を編む司。真っ直ぐな青い竹から丸い籠を作る作業。民子、自分の体調も忘れ必死になった。 「お願いです!どうか私を置いてください!」 土下座する民子。司は背を向けた。 「無理だ。他の仕事に行け。これは遊びじゃないんだ」 「やってみないとわかりません」 「やめておけ。とにかく出て言ってくれ」 冷たい態度の司。しかし民子は諦めなかった。 「私、置いてもらえるまで小屋の外にいます。お願いします」 そういうと、戸を開けて彼女は竹林に行ってしまった。 ……本気なのか?いや?違う。お嬢様の気まぐれさ。 放っておけば諦める。司はそう思っていた。 この夜。多少気になった司。小屋の外を見た。そこでは民子が何やら小屋の周りを整頓していた。 「おい。勝手にいじるな」 「すいません」 しかしよく見れば、綺麗に整えてあり、場所を動かしているわけではなかった。そんな民子、何やら笹を集めていた。 「それは何に使うのだ」 「今夜のお布団です。笹って香りがいいですね」 楽しそうな民子。司、信じられなかった。 「ばかな?!勝手にしろ」 戸を閉めた司。民子の本気にドキドキしていた。そしてそっと戸の隙間から見ると彼女は何やら薪を拾い、器用に火をつけて焚き火を始めていた。その背中、どこかウキウキしていた。 ……なんだ。料理でもする気か? 食べ物はないはず。しかし彼女は楽しそうに火のそばに座っていた。気がつけば司、表に出ていた。 「あ。旦那様」 「それはなんだ」 「川で小魚を見つけたんです。それにこっちは竹の子ですね。笹の葉で包んで、こうして蒸し焼きにしようかなって」 「いい匂いがするな」 「……山椒の葉があったので、一緒に包んでみました。どうかな」 楽しそうな民子。炎が照らす横顔。薄汚れていたが生き生きと綺麗だった。司も屈んで火をみつめた。 「おい、それは焦げそうだぞ」 「あら?これはもう、食べられるわね」 笹の葉を外した民子。そこでは白身の小魚が蒸し焼きになっていた。山椒の香りがした。 「どうぞ。旦那様」 「俺にか?」 「ええ。お世話になっていますので」 司。言われるまま竹の箸でこれを食べた。 「塩気が足りないな」 「では。これを掛けましょうか」 民子。竹藪の向こうで拾ってきた青い金柑の実。これを絞ってかけてみた。 「どうですか」 「……お前も食え」 「いいんです?旦那様で。私はこっちの小さいのを食べてみます……ん?美味しい?でも、骨だらけだわ。ふふふ」 楽しそうに食べる民子。司。思わず笑みを堪えた。 「ごちそうさまでした。では、旦那様、おやすみなさい」 「お前。本当に野宿するのか」 焚き火を片付ける民子。司は見つめた。 「はい。弟子にしていただくまで、ここで頑張ります!」 その力強い背。司はため息をついた。 「ここは、藪蚊(やぶか)が出るぞ」 「え?じゃ、焚き火で煙を焚いた方が良いかしら」 そう言った民子。焚き火によもぎの葉を入れた。だんだん白い煙が出てきた。ちゃんと対策をしている民子。本気の彼女に司は眉を顰めた。 「他にもだ。熊も出るし。昨日の追手も来るかもな」 ここで民子。司を嬉しそうに見つめた。 「それはですね。私、向こうに仕掛けをして。人が来たら音が鳴るようにしたんです」 「では来たらどうするんだ」 民子。スッと指さした。 「この竹に登ろうと思って。先、登ったら私!登れたんですよ」 「お前……」 ……ダメだ。本気だ。 度胸があるのか強気なのか。嬉しそうに野宿しようとしている民子。司はもう考えないようにして夜の戸を閉めた。 いつもはかんぬきをする戸。もしものことを思い施錠せず司は閉めた。 一人寝の布団。いつもの夜。しかし、司、眠れなかった。 一話「冷たい川のほとり」完 二話「青く伸びて』へ
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