四 消えた看板娘

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四 消えた看板娘

「奥さん。お嬢を置いて来ましたぜ」 「よくやったわね。どうだった?」 「恐ろしいところで。あそこは地獄ですぜ」 金を受け取った爺やの三郎。歯のない顔で笑った。 「どんな様子だった?」 「怯えてましたが。まず、あの様子じゃ逃げられないですわ」 「そう?よかった。大金を払っただけあったわ」 そういって三郎にも駄賃を渡した早苗。黒く微笑んだ。この場に勲がやってきた。 「あ、どうだった?三郎よ。民子の様子は」 「へい。気に入ったようで。お兄様によろしくと言っていました」 大嘘。しかし、人の良い勲。騙された。 「そうかそうか」 民子が優良な医療所に入ったと思い込んでいる勲。三郎に感謝した。 「そこはどんなところなんだ?」 「川のほとりで。風光明媚なところでごぜえやす」 確かに場所はそうであるが、実際は精神病院である。 「職員さんのたくさんおいでで。施設も清潔でした」 真顔の三郎の話に早苗は思わず吹き出しそうになった。 「何よりだね。そうだ!一度、行ってみたいな」 「……あなた」 早苗。ここで微笑んだ。 「せっかく民子さんが自分で頑張ろうとしているんですもの。余計なことはいけないわ」 「でも」 「そうだ。ねえ。三郎。お前。たまに様子を見に行っておくれ?それならいいでしょう」 「へい」 妻と爺やの話。勲、ここはそう気持ちを治めた。 ◇◇◇ 「え。まだ届いていないの」 「すいません」 「私が頼んだのは随分前だよ」 荒物屋の笹谷商店。家庭用品から大工の道具までの品揃え。たくさんの種類があるので隣町からも客が来る店であった。 「あの鍋がないと困るんだよ」 「すいません。すぐに手配します」 「奥さん。届き次第、電話をくれよ。全く。民子ちゃんの時は今までこんなことはなかったのに」 常連客はそう言って帰っていった。早苗は頭を下げてばかりであった。 そんな早苗にベテラン従業員が声をかけた。 「奥さん。この商品なんですけど、ここがちょっと割れていますよね」 「そうね」 「あのお客さん。これでもいいので欲しいそうなんで。割引して売りますね」 「え?割れてないのを売りなさい。割引してたらキリがないわ」 「これしかないんですよ」 店奥で揉めている様子。待たされている客が苛立ちの声をかけた。 「そんなら要らないよ!他所で買うから」 「あ。すいませんでした」 謝る従業員。早苗は憮然としていた。 こんな調子の笹谷商店。最近。評判をすっかり落としていた。 その夜。夫は店の帳簿を見ていた。 「なあ。早苗」 「何ですか」 「今月の従業員の手当てなんだが。一人、子供が産まれた奴がいてな。俺は給料を増やしてやりたいんだ」 「……そうですか」 「本人もな。手当が欲しいというし、俺は隣町の配達の仕事を増やすことにしたんだ。でもな。そいつはいつも朝一番で店を開けてくれていたんだよ」 「ああ。朝来ていた人ですか」 働き者の男。早苗も感心していた男だった。 早く店を開けること。それはただ開けるだけではない。店先に商品を並べたりし、1日の仕事の用意である。それに早朝は一人だけなので客の対応もせねばならない。 ここの商店街は早く店が開いているのが売り。隣町で商売をしている店の人が、開店前に来るような店。商店街の決まりで開ける時間が定められていた。 「そう。でも、配達になるとそれができなくなるんだ。だから、お前が店を開けるのをやってくれないか」 「私がですか?」 「ああ。私もやるが。頼んだよ」 そう簡単に言って。彼は風呂に入ってしまった。早苗。タバコに火をつけた。 ……せっかく邪魔者を追い出したのに。ふふふ。 そして。夫の酒を勝手に飲んだ。やっていられなかった。 この店に嫁に来たら贅沢できると思った早苗。実際の夫は倹約家。店も忙しく客も厳しい。そして、今まで切り込みしていた彼女はもういない。 ……まさか。こんなに仕事をこなしているとは思わなかったわ。 夫の妹。病弱で店にいた娘。しかし、実際は彼女が下支えをしていた事実。いなくなった初めて早苗は知った。 それを嘆いていも仕方ない。早苗。今夜も酒を煽っていた。 そして。早朝、店を開けてた。重い雨戸。開けてから店の商品を店先に並べる。早苗としてはこれは従業員にやらせるべきと提案したが、従業員たちは早苗が民子を追い出したと思い、誰も手伝わなかった。 仕方なく早苗は店の支度をしていた。 「奥さん。この値段はいくらだい?」 「値札にありませんか」 「ないから聞いているんだよ」 気が利かないと客に叱られた早苗。それでも必死に仕事をしていた。 ある男が来て、会計になった。 「あれ。私が出したのは百円札だよ」 「え。違いますが」 「何を言う。間違えているよ」 出したのは高額紙幣だと言い張る男。しかし、絶対そんなことはないはずだった。早苗は説明した。 「お客様の出したのはこのお金ですよ」 「あんた!客の私を泥棒呼ばわりする気か」 「どうした。早苗」 店先の騒ぎ。店の主人の勲。大声で散らす客の言う通りにお釣りを出してさっさと帰した。 「ありがとうございました」 「あなた。あれは嘘なのに」 「……早苗。お前、お金をどうやったんだ」 冷たい顔の勲。早苗の説明を聞いた。 「いいか。そういう大枚の時は、受け取っても金を客の目の前に置いたままにしておくんだ」 勲。やってみせた。 「そして。お釣りを渡す。会計に入れるのは客が帰ってからでもいいんだ」 「でも。いちいちそんなこと」 「今のはお前。狙われたんだぞ」 穏和な夫の怖い顔。早苗は息を呑んだ。 「だいたいな。こんな少ない買い物で大枚だろう?釣り銭目的だ」 「あなたはわかっていて。帰したんですか」 「ああ。そうだ。店で騒がれる方が厄介なんだよ。おい。頼むよ」 勲がそれだけ言うと、従業員が塩をまいた。早苗、それを黙って見ていた。 「あのな。なぜそれをお前に言うかというと。さっきの奴が仲間に話して。お前を狙うかもしれないからだ」 「私を?」 「ああ、そうだ。騙しやすい女だとどんどん来るぞ」 「そんな」 夫の話に脅された早苗。その後も店で不遇が続いた。 「奥さん。買った商品。うちに帰ったら壊れてましたよ」 「それは言いがかりです」 ここでは従業員が間に入り、代わりの品とおまけ付きで客は帰っていった。 早苗。悲しくつぶやいた。 「どうしてなのよ、私ばかりなぜ」 「それは……奥さんのせいですよ」 「え?私のせい?」 古くから勤める男。悲しく早苗を見た。 「あのお品。奥さんが包んだんです。お嬢様ならあんな包み方はしない」 「でも、私は基本通りにやっています!」 「そうじゃない。そうじゃないんですよ」 もう首になってもいい老従業員。優しく店内の商品を掃除した。 「奥さんには愛情がない。あのお品を大事に使って欲しいという気持ちがないから。包み方も雑になるし、お客さんにも伝わるんですよ」 「は?愛情がないって。商品は商品よ」 「この店は、皆さんが必要なものを揃えているんです。だから、お客さんの気持ちを掴めない以上、奥さんは同じです」 「お前まで、私を侮辱する気なの」 「……そうやって。従業員を侮辱している以上、奥さんもお客さんに侮辱されるでしょうね」 彼はそう言って頭を下げた。そして彼は主人である勲の前にやってきた。 「旦那さん。やっぱりわしは辞めさせていただきます」 「そうか」 「腰がどうもダメですわ」 「……寂しくなるよ」 早苗のせいとは言話なかった老齢の従業員。ここで。彼は勲に尋ねた。 「ところで。民子お嬢はお元気ですか」 「ああ。そう聞いているよ」 「妻と一緒に。見舞いに行きたいのですが。今度、病院を教えてください」 「わかった。辞めても顔を出してくれよ」 長年勤務した彼は辞めて行った。すると早苗は嬉々とした。 「ねえ。あの辞めた男の分、例の子供ができた男に給料を出せばいいじゃないの」 「え」 「助かった……お願いね。私は朝当番は無理よ」 やる気のない早苗。勲。ため息をついた。たくさんの商品が並ぶ店。彼の目にはいつもはたきをかけていた妹の笑顔が思い出されていた。 四「消えた看板娘」 完 五「修行」つづく
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