五 修行

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五 修行

「ん……眩しい」 久しぶりの布団で寝た民子。痛む腰を押さえて起きた。 ……何時だろう。寝過ごしてしまったのは間違い無いけれど。 小屋の中、静か。司はいない。民子、よろよろと起きて水を飲んだ。太陽は真上。今は昼であると気がついた。 竹細工の職人に弟子入りした民子。なのに寝過ごすと言うこの失態。ありえない、あってはならない話。彼女は真っ青になった。 ……どうしよう……これでは追い出されるわ。 とにかく。謝ろう。民子は慌てて外に出ようとした。 「おっと」 「すいません!」 帰ってきた司とぶつかった民子。彼の胸におでこを打っていた。 「痛たた」 「俺に言われる前に出て行こうとしたのか。これは手間が省けた」 「違います!あの、すいませんでした」 頭を下げる民子。司、ツーンと無視して背負っていたカゴを下ろした。そして水場で何やら始めた。 「あの、師匠」 「……」 「申し訳ありませんでした」 「……」 何も言わない司。民子、涙が出そうになった。実家にいた時はお嬢様。家の者が何でも話して世話をしてくれていた。そんな民子。無言の司の前でどうして良いのかわからなかった。 「師匠。私はどうすればいいですか」 「……さあ?」 「え」 冷たい顔。司は民子を見ずに話した。 「知らん。勝手にそうしていろ」 司。怒ってるわけでもなく呆れるでもなく。そう言って囲炉裏の鍋でお湯を沸かし出した。民子は土間に立っていた。 ……どうして。何も言ってくれないのかしら。 悲しくなってきた民子。じっと司を見ていた。この時、少しひらめいた。 ……そうだわ。指示を待っていてはいけないのよ。 実家の笹谷商店でも。奉公人にきた若者達は民子がいう前にどんどん動いていた。彼らは雨が降る前に雨戸を閉めて、日が出る前に雨戸を開ける。言われてからでは遅い、と民子の父はよく使用人を叱っていたことを思い出した。 ……そうよ。私はここでは使用人。いや、それ以下ですもの。師匠に言われる前にお仕事をしないと! ようやく頑張る方向に気がついた民子。まずは部屋の掃除でもしようと雑巾を取り出した。 「今はよせ。俺が何をしているのかよくみろ」 「あ、そうですね」 囲炉裏で何か野菜を茹でている様子。この周囲で掃除など返って邪魔。さらに今は昼。掃除をこんな時間にしても迷惑。民子、今さら出遅れた事に落ち込んでいた。 そんな民子を司はじっと見た。 「もういい。そこに座れ」 「はい」 司。実際は民子の体調の心配していた。司、娘の顔色をじっと見た。 ……まあ、こんなものか。 すっかり寝たおかげか。けろりとしている娘。司、やっと安心した。 「師匠。初日からすいません」 「期待しておらぬ。安心しろ」 「ううう」 「……できた。食え」 「これは。お芋ですか」 司が茹でていたのはサツマイモ。ただの塩茹での芋。竹串に刺して差し出した芋。民子、これを受け取り、串に刺さったままふうふうしながら食べた。 「美味しい?!」 「ただの芋だぞ……」 囲炉裏端を囲んで座る彼ら。対面の司、感動している民子を二度見した。 「ああ……私、こんな美味しいお芋を食べたのは初めてです!美味しい……」 感激している娘。驚きで目を見開いて食べていた。司、この食欲に笑いを必死に堪えていた。 「ホクホクで。美味しいです。師匠はホクホク派なんですね」 「芋に流派があるのか」 「はい。ねっとり派とホクホク派です。私はどちらかと言うとねっとり派でしたけど、ホクホクがこんなに美味しいなんて。今まで損しておりました」 「ふ」 「師匠はいつもこんな美味しいお芋を食べていらっしゃるんですか?」 「……飲め。お茶だ」 司。竹を切っただけの湯呑みにお茶を出した。民子、これを飲んだ。 「いい香り……うん?!これはまた爽やかで。香りが高いです」 「そうか」 「静岡の新茶ですか?美味しい……風味がまろやかで、気品があって」 「よかったな」 「え?」 司。スッと立ち上がり竹細工の前に座った。その真剣な顔。民子は彼は仕事を始めると思った。そして食べ終わったこの周囲を片付けていた。その姿、司、そっと見ていた。 ……いつも何を食べているんだ?芋をあんなに美味しそうに。 本来であれば米が食いたい。しかし金が乏しい彼はさつまいもを作って食べていた。さらに飲ませたのは竹の笹で作ったお茶。茶葉が買えない彼が竹職人の仲間が作ったものを飲んでいるだけ。けれど娘は、実に美味しそうに食していた。 ……おかしな娘だ。まあ、元気になってよかった。 まだ修行もできない様子の娘。司、今はまだ様子を見ていた。 民子はその後。水場を掃除したり、小屋の周囲を箒で掃除したりした。そして夕刻。司に呼ばれた。 「お前。夕食を作れ」 「は、はい」 囲炉裏の鍋。ここに食材を入れるだけ。言われた民子。水が入った鍋を火に掛けた。 ……ええと。入れればいいのよね。 「それ」 「おい。お前、水が沸いたのか?」 「え。まだですけど」 「……普通は茹で上がってから入れるものだ」 「そうなんですか?すいません」 「はあ」 ……炊事もできぬとは。これは厄介だな。 申し訳なさそうな娘。司、仕方なく自分が支度を進めた。 「師匠。お湯が沸いたら入れるんですね」 「根菜、つまり、土の中の野菜は水から入れる。土の上の野菜はお湯になってから入れる」 「土の上と土の中……分かりました。お肉や魚はお湯からですね」 「そうだ」 基本的な話。司にとっては馬鹿馬鹿しい話。しかし、知らない民子、必死に覚えていた。 「では卵もお湯の時に入れるんですね。そして、お味噌は最後にですか?」 「そうだ」 「……ぐらぐらに沸いたので、お味噌を入れますよ」 「あまり茹でこぼすな。味噌の風味が損なわれる」 「なるほど」 竹細工職人なのに料理の話。司、今後を思うとかなり気が重くなった。そして完成した野菜鍋。司。食べた。まあまあだった。 「お前も食え」 「私は後で。残り物で結構です」 「勝手にしろ」 実家の使用人もそうしている食事。民子、それを思い出して動き出した。やがて司が食べた後、自分も食べた。 「美味しい?!お出汁が効いているわ」 「感心してないで。早く食べて寝ろ」 「……師匠……私、こんなふうにお料理したことが無いので、嬉しい」 感激しているのは本当の様子。司。呆れるのを通り越し、民子が心配になった。 ……本当に大丈夫なのか。やはり家に帰したほうが良いのではないか。 司の心配をよそに。民子は楽しそうに食器を片付けた。 「もういい。早く寝ろ」 「でも。師匠よりも早く寝るなんて」 「明日から。明日からしっかりやれ」 「師匠」 「今夜は寝ろ。場所は床下だ」 真剣な目。民子、うなづくしかなかった。そして本当に寝た。 ……寝たか。まずは疲れをとってやれねば。 若い娘、これを弟子にした司。彼女を弟子にしたのは間違いであったかと思い返していた。そんな思いの中、彼女の寝息が聞こえてきた。 ……まあ。明日だ。今は寝かせてやろう。 司。蝋燭の灯火で竹細工を編み出した。夏の夜、虫の音の中。彼女の吐息の世界。彼の手は夜遅くまで止まらずに動いていた。 五『修行』 完
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