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プロローグ 2
イタリア北西部のロンバルディア州にあるマントヴァは、町の三方を湖に囲まれた古都だ。「Nec spe nec metu(夢もなく、恐れもなく)」をモットーとしたルネサンスの才媛、マントヴァ侯妃イザベラ・デステが活躍した地と言えばわかるだろうか。
あるいは、シェイクスピアの四大悲劇のひとつ、『ロミオとジュリエット』でティボルトを殺したロミオが追放されたマンチュアは、マントヴァの英語名だと言ったほうが、ピンとくるかもしれない。
街路を歩けば、パラッツォ・ドゥカーレをはじめ、ルネサンス時代の歴史ある建物が次々と現れる。時を遡っていくような、不思議な感覚を味わえる町だ。
スモック姿のまま、つば広の麦わら帽子をかぶり、左肩に大きな麻袋をかつぎ、右肩に紐をかけた画板を脇の下に挟みながら歩く画家の姿を、行き交う人は誰も気にしない。さすが芸術の国、イタリアといったところか。
ぐうぐう鳴りだした腹を抱え、若干前屈みで歩いていた彼は、タヴェルナ(食堂)の看板を見つけるやいなや、扉を開けて入ろうとした。が、狭い戸口に麻袋と画板が引っかかり、つかえてしまう。
「そんなに慌てなくても、わたしら、逃げたりしないよ」
それこそ戸口につかえそうに太ったおかみさんが、肩の荷物を下ろそうとジタバタしている画家に声をかける。その声で客たちの視線が彼に集中し、その奮闘を爆笑が迎えた。
ようやく戸口から解放された画家は、顔を赤らめ、客たちにぺこぺこ頭を下げながらカウンターに近づいた。
「いらっしゃい! その隅の席なら荷物を置いても邪魔にならないよ」
壁際のカウンターの席を指差したおかみさんは、彼が荷物を置き、帽子を脱ぎ、椅子に落ち着いたのを見計らって、水の入ったキャラフとグラスを持ってきた。
「お兄さんは、北の方の人かい?」
「ええ。イギリスから来ました」
「それはまた遠いところから。旅行かい?」
「絵のモチーフを探しにきたんです。マントヴァは初めてですが、描きたいところがいっぱいで興奮しています!」
「それはなによりだね。外国の人にそう言ってもらうとうれしいよ」
言いながら、戸口近くの壁を見やったおかみさんにつられて、彼もそちらを見る。そこには大きな黒板がかかっていて、かろうじて文字とわかるアルファベットが白いチョークで書かれていた。
「何にする?」
どうやら、あのミミズののたくったような文字はメニューらしい。しばらく睨んでみたが、まったく読めない。
「ええと、オススメはありますか?」
「そうだね。お腹は空いてるのかい?」
「腹の虫がぐうぐう言ってます」
「マントヴァが初めてで、お腹が減ってるなら、ルッチョ・イン・サルサ・マントヴァ―ナ(川魚の白ワイン煮、マントヴァソース)、トルテリーニ・ズッカ(南瓜のラビオリ風パスタ)、リゾット・アラ・ピロッタ(炊き込みご飯風リゾット)くらいでどうだい?」
「それ、それでお願いします!」
「はいよ!」
カウンターは、テーブルと椅子が雑に置かれているフロアとキッチンを仕切る役割をしていて、鍋類や積まれた食器越しに調理しているようすが見える。キッチンに入ったおかみさんは、フライパンを振っている初老の男に声をかけた。もうひとり、若い男が調理台に向かい、包丁で何かを刻んでいる。
注文を終えて、ようやく落ち着いた画家は、キャラフからグラスに注いだ水を口に含みながら、肩越しにフロアをうかがった。昼時の店内は混んでいて、秩序なく並んだテーブルはすべて客で埋まっている。適当にテーブルをくっつけたり、他のテーブルの空いている椅子を持ってきて座っているらしく、2人で座っているテーブルもあれば、5人、6人で2つのテーブルを囲んでいるところもあった。
テーブルに料理を満載して談笑している客たちの間を、盆を持って歩いているのは……子ども!?
よく見れば、男の子が自分の肩幅より大きい盆に料理を載せて運んでいた。その後ろに隠れるようにしてついていく女の子は、男の子が目的のテーブルに盆を近づけると、鍋つかみをはめた手で料理の皿を持ち、テーブルに置く。すると、テーブルの男が、盆の上に何枚か小銭を置いた。男の子と女の子はおじぎをして、キッチンのほうに戻ってくる。
と、画家の目の前にスープ皿が置かれた。
「え、これは注文と違います、たぶん」
「初めての客にはスープをごちそうする。そうすると、客は店についてくれる。うちのジンクスなのさ」
スープ皿の横にスプーンを置いて、「いいから、食べてみなよ」とおかみさんが促す。
そういうことなら遠慮なく、と、スープをすくう。赤ワイン入りのブイヨンが、湖で冷えた空きっ腹に暖かく染み渡る。小さな巻き貝のような形のパスタの茹で加減もちょうどいい。
「おいしい!」
「そうかい。よかった」
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