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プロローグ 1
28 November 1891 Mantua
霧の中から、ギィギィと艫(ろ)の音を立てながら小舟が現れる。鏡のような湖面を舳先が割るように進み、さざ波の筋を引いていく。舟の上には艫を操る初老の船頭と、肩から下げた画板の上で忙しく手を動かす青年。
「兄さんは画家さんかね」
「そうです」
「こんな霧の日に湖に出ても、何も見えんだろう」
「見えてますよ。霧と湖が――。
この景色が観たくて、マントヴァまで来たんです」
「霧ばっかりのこんな景色を見に、かね。芸術家さんの考えることはわからんねえ。まあ、お代はいただいてるんだ。お望みのところに連れてくよ」
「ありがとう。危険のない程度に、できるだけ霧の濃いところを進んでください」
「Si、Si、シニョーレ」
霧の湿気を含んで、若干ぺたりとした明るい茶色の猫っ毛。ほっそりした輪郭に、日に焼けていても白さが残る顔。風景と画板の上の画用紙に交互に視線を送る、草色の瞳。ところどころ絵の具の汚れがついたままの、薄汚れたサンドベージュのスモックを着た姿は、どう見ても「画家」だ。むしろ画家を主張しすぎているくらいだ。
何が面白いのか、かすかな風にのってもやもやと有様を変える霧そのものや霧の立つ湖面、霧の向こうにうっすら見える町の様子を何枚も何枚もスケッチしていく。
2時間も晩秋の湖の上にいると、体が冷えてくる。太陽が朝から昼へ移ろい始めると、霧も薄くなってくる。船頭が「そろそろ」と声をかけようとしたとき、舟底が見えなくなるほどスケッチを量産した青年はようやく手を止めた。
「満足しました。岸に戻りましょう」
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