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「美味かっただろ? ここ」
「は、はい」
「秋刀魚の炭火焼きが本当に美味いから、それがよかったんだが、今日はなかったな。残念」
決めたと言ったのに、僕に何を食べたいのか訊いてきた。お腹が空いていたのは貴方なのに。
「また今度だな」
「は……ぃ」
不思議そうな顔を僕がしてたんだろう。店を出て、タクシーを拾うため大きな通りへ向かって歩きながら、僕の顔を見て、小さく笑い、僕の鼻をキュッと摘んだ。
「お前さ……」
「はい」
「もっと自由にしていいんだぜ?」
「え?」
「家のために結婚しなくていい。ただそれだけじゃなくて」
「……」
「お前の好きなようにしていいんだ」
そう言って笑う貴方に見惚れていた。仕事の時は撫でつけて後ろへ流すようにセットしている僕の髪が走り抜ける秋の気配混じりの風に揺れて、わずかに乱れた。その風に揺れた髪を環さんが指先ですいて柔らかくしてしまう。元々は柔らかい髪だから、セットをしても夜には少し崩れてしまうんだ。だらしがないでしょう? 上条家、次期当主の秘書がそんなじゃ。
「だから、これは練習」
「……練習?」
「あぁ、お前が、自分のやりたいことをやる練習」
「……」
「いつも誰かに合わせる癖がついてるお前が、自分の好きなことをやれるようになる練習だ」
環さんの食べたいものに合わせるのではなく、僕の食べたいものを。
「だから、花もお前の好きなように好きな花を活けてくれ」
「……」
「それが見たいんだ。仕事で疲れてる時に、お前が飾りたいと活けた花を見て元気になるから」
すごく。
「わかったか?」
すごく、大事にされてる。
ずっとそうだったけれど、僕はそれをできるだけ見つけてしまわないようにと気をつけてそっぽを向いていた。環さんにすごく大事にされているなんて実感してしまったら、お終いにするのが辛くなってしまいそうで。ちらりと視界の端で見て、けれど、見なかったことにして、「手伝いだもの」と何度も言い聞かせてきた。
なのに、それを今こうして真正面から言われて。
真正面から髪を撫でられて、
たまらなく実感してしまう。
「は、い」
僕が飾りたいと活けた花を見たら元気になってくれるの? まるで、それは恋しい人の気配に潤う恋人みたいで。
「ぼ、僕なんかの、センスもない花を見て元気になれるんですか?」
「センス……ね」
「環さん?」
「なるだろ」
花は癒しだったり、感動だったり、そういうものだと思う。兄の作品は華やかで人を魅了する。そして、癒すんだ。香りで、色で、姿で。僕には表現できない艶やかさで。でも――。
「だって、あれだけ庭の端っこをでっかい百合の花で満開にできるお前が活けた花だぜ?」
「!」
でも、僕には、僕の表現できるものが、あるのかな。
「あ、あのっ」
「んー?」
連れて行ってくれた和食の美味しい小料理家は都会のど真ん中にありながら、古民家を改築した作りで、雰囲気も良かったけれど、タクシーを拾える大通りまでは少し歩かないと行けない。環さんは秋風を少し寒いと感じていた僕に気がついてくれたんだろう。多分、髪に触れてくれた時、頬にも触れて気がついてくれたんだ。お酒を飲んでいたのに、頬が冷たかったと。
いつも貴方はこんなふうに僕のほんの僅かな気持ちの動きに気がついてくれる。
「あ、あの、さっき」
「……」
「さっきの女性は……その、とても親しい関係……だったんでしょう? その、雰囲気が」
「……」
僕には兄のような才はない。
知ってる? 努力に勝る天才はいないかもしれないけれど、天才が努力をしてしまったら、努力しかない人はやっぱり敵わないんだ。
だから僕が、兄や父のようにはなれない。彼らは天才で、そして努力を怠らないから。それでも。
僕の、僕らしさをたった一人。
「あ、あのっ」
貴方が愛でてくれるのなら、僕は。
「い、嫌です」
「……」
「もう、あの」
嫌われないかな。
僕みたいなのがそんなことを言って、なんて図々しいと思われない?
才がないのに、何を言っているんだと呆れてしまわない?
「なんでも言えよ」
「……ほ、他の女性と会わないで……く……ださい」
ねぇ、こんなことを言ってしまって。
「あっ、あの、お仕事上では全然、全然いいんです。どうぞ会ってください。あの、率先してとかじゃなく、あ、えっと、なんて言ったらいいんだろ、あの、仕事頑張ってください。すごく立派なお仕事です。今、今言ったのはそういうことじゃなくて、プライベートではその……」
「あぁ、いいよ」
「え?」
僕のこと呆れて、嫌いになったり……しない?
「あの……」
環さんはジャケットの内ポケットからスマホを取り出すと僕に見えるように画面をこちらに向けて、そして。
「! ちょっ」
そして、そのまま連絡先の全消去を。
「あのっ環さんっ」
「……ほら」
してしまった。
「な、何してるんですか! あの」
「大丈夫だよ。仕事上に必要な連絡先はパソコンにも残ってる。そっちからまた引っ張ればいい。ほら」
そして、その今、アドレスが空っぽになったスマホを僕の手の中にポンと落っことした。
「雪の連絡先だけ入ってりゃ充分だ」
「……」
「入れといて」
なんて人だろう。
「入れたか?」
「……は、ぃ」
「雪……と。さて」
僕の連絡先だけ改めて入れて、あとはそのスマホをまた内ポケットの中に戻してしまった。さっきの女性も、過去の女性たち全員を貴方の内ポケットから退かして。
「タクシー拾うぞ」
「はい」
「ここは俺の我儘な」
「?」
「今から俺のマンションにお前を連れ込む」
「……」
僕だけをその胸のポケットの中にしまってくれた。
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