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恋は、本当、おかしなものだと思う。
恋一つで、こんなに幸せな気持ちになれるものなのだろうかと。
「炬燵っていいものだな」
「……はい?」
またこの人は何を突然言い出したんだろう。
今日は午後五時からの一時間、雑誌のインタビューがあるからと、ホテルでの講演会を終えて、車で移動している最中だった。
その車の中ではいつも静かにリラックスをしているか、次の花のイメージを膨らませていることの多かった兄が、窓の外を流れる景色を眺めながら、ぽつりと呟いた。
僅かに笑いながら。
そんなことを考えてる時は大概、彼のことだ。拓馬さん。
兄が溺愛してやまない、大事な大事な拓馬さん……のことがどうしてか炬燵に繋がっているらしい。
「なんですか? 急に」
「いや、冬は炬燵だなぁと思っただけだ」
「……はぁ」
炬燵なんて……兄の部屋にあったっけ? 確か、あの部屋は同級生でインテリアデザイナーの人に全て任せたんじゃなかったっけ? 部屋でも車でも、あまりこだわりのない兄だったから、それこそ全て丸投げで任せられるのならと言っていたんだ。それが、今は何やら炬燵にこだわりを持つようにもなるし。なんだったら、拓馬に食べさせてやりたいと移動中に料理本なんて読み始めたりする。
恋は恐ろしい。
こんな兄は見たことがない。
「炬燵……」
何度も炬燵コタツと呟いては、ニコニコニコニコ……嬉しそうにする兄なんて。
『炬燵?』
「えぇ、とても嬉しそうにしていたんです。インタビューの時も取材に来ていた方に炬燵は自宅にあるか? なんて訊いたりして」
『へぇ』
電話の向こうで、コホンと小さく、環さんが咳をした。
僕はタクシーで環さんの自宅へと向かっている最中だった。運転はできるけれど、極力したくないんだ。何かあっても怖いし、それに移動の時間だって勿体無いと思ってしまうから。タクシーに乗っている間すら惜しくて、仕事をしてしまう。今も膝の上にはタブレットを置いて、そう急いでいないけれど、仕事をしていた。
今夜は環さんの自宅マンションに行くことになっていたから。
「大丈夫ですか?」
『あぁ』
明日は休みだけれど、明後日の仕事のことがあるから少し準備をしないといけなくて。けれど、環さんといるから。
「咳を……」
今夜は、仕事をしているような時間がないかもしれないって思って。その……この人に会うと僕は夢中になってしまうから。
だから今のうちにできるだけやっておこうと思ったんだ。
最近、環さんの仕事が忙しかったから、会うのは二週間ぶりになる。きっとこの人のことだ、仕事が忙しいと冷蔵庫の中にはお酒とミネラルウオーターくらいしか入ってないだろうし。向かっている最中で何か買っていこうと電話をかけた。欲しいものはありますか? って。
でもそこから、今日の兄のおかしな様子を話し出してしまって。タブレットに置いた手は止まったままだ。
ほら、やっぱり環さんに夢中になってしまう。会う時間が少ないから、会えると、声が聞こえると、空腹を満たすように夢中になってしまうんだ。
『そのことなんだが』
「? はい」
『今日は、悪い、会えそうもない』
「え……あ……ごめんなさい」
まだ、忙しかった? 一昨日、電話をかけてしまった。会いたくて。忙しいのは知っていたから、声だけでも聞けたらそれでよかったんだ。それで充分って思っていたけれど、ちょうど連絡をしようと思っていたところだったって。時間取れそうだって言ってもらえて、嬉しくて、嬉しくて、つい、環さんの都合をあまり考えてなかったかもしれない。
少し先走って、今日会いたいと予定を押し付けてしまったんだ。きっと。
「あの、そしたら、また別の」
『いや、そうじゃない』
「?」
『その、風邪を引いた。熱があるんだ、だから、また明日か……明後日、いや、明後日は仕事で法廷に出向くから……すぐに都合をつけて連絡する』
「え? あの」
『悪いな。また』
「ちょっ!」
ちょっと待って。熱があるの? 風邪を引いてしまったの?
「何度あるんです?」
『あー、いや……』
「何度! なんですか?」
『三十八度は……超えてた、な」
「高熱じゃないですか!」
『大したことはない』
バカ、なんじゃないの? 大したこと、あるでしょう? そんな高い熱が出ていて、普通になんてしてないで。
「今から行きます!」
『は? お前、何言って、バカか。来るな。移したら』
「行きます!」
我儘はしたことがない。
そんなの仕方もわからなかった。けれど、今は我儘をしていいと、言ってもらえた。
「前に、俺の好きなようにしていいと仰ってました!」
ね、そうでしょう?
『バカ、それは今じゃねぇよ』
「イヤです! 好きなようにします!」
『おい!』
「看病!」
だって、好きなようにしていいと、我儘で構わないと言ってくれたのは環さんでしょう?
「します!」
なのに、今はダメなんて聞いてあげない。それすら我儘にしたって構わないはずでしょう? だから、まだ電話の向こうで『おい!』って呼んでいたけれど通話を切ってしまった。
あんなにもっと我儘になれと言っていたのに、今は控えなさいなんて虫が良すぎる。それにそういう融通が効かないって知っているでしょう? 応用なんてできないんだから。
僕はとっても頑固なんだって、知らなかったの?
「あの、運転手さん、申し訳ないんだけれどどこか薬局へ寄っていただけますか?」
今夜は決めたんだ。
「風邪薬を買いたいんです」
貴方を僕が看病するって、決めたんです。
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