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駅から歩いて十五分程度、タクシーを呼ぶほどでもないと二人で歩いて向かうことにした。
環さんとのんびり歩くなんて時間の過ごし方は珍しくて、その物珍しさにチラチラと横を伺ってしまう。
「そこの十字路を真っ直ぐ行くらしいです」
田舎というわけではないけれど、今まで住んでいたような場所とは全く違う場所だ。拓馬さんの生活に合わせてのことだった。兄は仕事上、どこかに毎日通うとかではないから。どこに住みかを構えても大差ないんだ。
「いいな……静かで」
環さんが住んでいるところとも全く違う。高層マンションなんてどこにもない。いくつか見かけたアパートはせいぜい五階建て程度だ。
住宅地という方が近い、そこを楽しそうに環さんが歩いている。片手には途中で買ったアイスクリームを持って、上等なブランドもののスーツだけれど、まるで仕事帰りのサラリーマンのようで。場所のせいかな。普段、少しも生活感がないけれど、今は少し日常のワンシーンのように見えた。
「スーパーマーケットに薬局もあったな」
「えぇ、案外、便利な場所なんだと話してました」
「へぇ」
兄はほぼ毎日ニッコニコだ。朝起きるとパートナーが隣で眠っている、ただただそれだけでその日一日が楽しくなるのだろう。
けれど、そんなに? そこまで? そう言いたくなるくらいに今までの兄とは全く様子が違っていて。
同じ家に帰るのに、駅前で待ち合わせて一緒に帰ったり、お互いの帰宅時に「おかえり」を言っては喜んでみたり。
毎日がとても楽しそうなんだ。
それを隣で見ていると、たまに驚いてしまう。こんなに幸せそうな兄を見たことがないから。だからかな、もしも環さんが僕と……なんて。
とっても贅沢なことを妄想してしまいそうになるんだ。
「どうかしたか? 雪」
「あ、いえ……アイス溶けちゃってないかなって」
「寒いから大丈夫だろ」
「……えぇ」
仕事の帰り、ちょうど同時くらいに駅に着くからって待ち合わせてこんなふうに帰ったり。
もうそろそろ仕事から帰ってくるだろうこの人の横顔を思い出しながら、「おかえりなさい」って言うのを待ち構えていたり。
逆に僕の方が遅くなってしまい、この人のいる自宅へ帰り、「ただいま」って言うことに、出迎えてもらえるとこに喜んでみたり。
そんな自分と環さんを、つい――。
「頬が冷たい」
ふと、彼が僕の頬に触れた。
「……ぁ」
環さんの指先は暖かくて、心地良くて、冬の夜には鮮やかなほど。だから触れられると、ついその温度に首を傾けて追いかけてしまう。
「やっぱりタクシー使えばよかったな。少しのんびり雪と歩きたいって思ったんだが」
「あ、いえっ、僕はっ」
「急ごうか」
僕も環さんと一緒に歩くのが楽しくて嬉しかった。だって、会って、二人っきりで部屋で過ごす時はもうずっと舞い上がってしまっているし、貴方に触れてもらいたいと思うばかりで、こんなに色々考える隙間がない。今はまだ、ずっと片想いをしていた貴方の隣にいられるだけでも充分なんだ。本当に、こうして貴方のプライベートな時間を恋人として過ごすだけでも充分幸福で、胸がいっぱいになるから。ゆっくり歩くと、ゆっくりと考えられるから。だから、普段は思うこともない。優しく微笑んでくれるこの人の全て丸ごとを独り占めした日々を、つい、妄想してしまった。
兄の以前住んでいたマンションは超高級マンションだった。そんなに住む場所に見栄を張ることのない人だった兄はインテリアデザイナーをしている友人の好きに部屋をアレンジさせていた。
「やぁ、いらっしゃい」
以前の部屋はとても広く豪勢だった。玄関を開けるとまっすぐ廊下が続いている。白を基調とした部屋にはその廊下にまで昼間なら光が充分届くような大きな窓があって、足元には大都会が見える。夜には夜景も楽しめるようなそんな場所だった。
「寒かったですよねっ。どうぞ、部屋あったかくしてあります」
今の部屋は一介のサラリーマンには豪勢だろうけど。決して、ハイセンスって言うわけでもない。普通の大きめなマンションの一室だ。白い壁にグレーの木目の廊下。その廊下の先にはリビングがあって、キッチンもある。普通の部屋だ。
「どうぞどうぞ」
あぁ……でも。
「あ、あの適当にどうぞ。座ってください」
「ほら寒かっただろう? 炬燵に入るといい。足がとてもあったまるから」
こっちの方が素敵だと思った。
「ほら、成田も」
「面白いですよね。敦之さん、本当に炬燵がお気に入りなんです。そこで普段は蜜柑を食べてます。あ、どうぞ、たくさん寛いでください」
こっちの方が暖かくて、心地いい。ハイセンスでも、インテリアデザイナーに頼んだような素晴らしい空間演出があるわけではないけれど。でも、とてもホッとする。
「もうお腹空いてますか? お鍋にしたんです」
「成田は先に日本酒にするか?」
「あぁ」
炬燵は使ったことがなかった。床暖房が備わっているからどこにも必要じゃなかったんだ。けれど、兄がとっても嬉しそうに手招いた部屋も、自慢気に見せびらかす炬燵も暖かくて。
「お邪魔します」
とても素敵な空間だと思った。
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