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作戦そのイチを実施するにあたって、スイは食事制限とお風呂禁止を行った。人間と猫の姿はつながっているので、太れば巨猫に、痩せれば貧相な猫になる。食べられないこと自体は我慢できるが、シャワーを浴びられないのはきつい。
なるべく人に合わず、準備を重ねた。そのうちのひとつがハルミの家や職場の位置関係を知ることだ。王都の地理を把握しているとはいえ、猫目線では見え方が異なる。夜に偵察を済ませ、昼にもふらりと散歩しておいた。
だから、
(何度見てもかわいい家だなあ……)
初見ではないとはいえ、絵本からそのまま飛び出してきたかのような家に内心ほへーと呟く。
オフホワイトの壁に、日光をいっぱいに吸収したような暖色の煉瓦。広めに取られた庭に様々な植物が植えられているのが、門越しの低い位置からも見て取れる。平屋なのもあって優しそうなおばあさんがいまにも出てきそうな外観だ。
王立魔法学園にほど近い、閑静な住宅街。人気のある土地なだけあって、お値段も高め。おまけに角地だ。ハルミはなかなかいい場所に住んでいるようだった。
人嫌いだと言うのだからもっと辺鄙な土地に居を構えていると思っていたスイとしては拍子抜けだが、地理勘をわかっている分やりやすい。
塀と公道の間、ちょっとした隙間に生える小さな花と視線を合わせ、むふっとピンクのはなで息をする。軽く地面に転がってから、にゃあと鳴いてハルミの敷地に侵入しようとした瞬間、
「ふにゃッ――!」
見えない何かに弾き飛ばされ、スイはふっとばされた。クエスチョンを頭上に並べ、いまの自分に何が起きたのか冷静に判断する。
(まさか、常時侵入防止結界張ってんの……?)
やべえとは思いつつ再度チャレンジ。想定通り同じ目に遭う。突撃と失敗を形を変えながらも数度行い、あ、これ無理なやつだと諦める。
貴族並のセキュリティに呆然とし、ぷるぷる震えていると人の気配を察知した。ガチャ、と音がして、家主であろう人物が近づいてくる。
すぐさま警戒の姿勢をとって、上を見上げた。ずっとずっと上だ。門を少しだけ開けた相手の顔は、思いのほか高い位置にあったから。
「猫……?」
ぽつりと転げ落ちた音は、猫の耳にも触りが良かった。黒の長髪がさらりと流れて、思わずじっと見てしまう。
綺麗な人だった。光りを鈍く弾く黒が美しくて、気弱な猫を演じることすら忘れてしまうような。額の広さも、切れ長の目も、鼻の高さも、すべてが計算され尽くしているようだが、黒がそれらを吸い尽くしてしまう。
「君、この辺りの猫じゃないな。少し痩せているし、私の家のことを知らない」
ハルミに声をかけられて、スイはハッとした。
「迷子か」
迷い込みに来ました。
うるうる。人よりも透明度の高いブルーグリーンの瞳で、人間を堕としにかかる。
膝をおり、ハルミがこちらに腕を伸ばす。長い髪を左手でよけながら、「ひとりか?」と尋ね、こちらを見つめる。やや痩けた猫をこのまま見なかったことにするか考えているのだろう。だいぶ意思が揺らいでいるはずだ。
あと、ひと押し。
ちょっぴり警戒を滲ませながら、にゃあとひと鳴き。伸ばされた指先にほんの少しだけすり寄ると、ハルミは真っ直ぐだったくちびるをきゅっと上げた。
「うちに来るか?」
そう言いながら抱き上げられ、一応抵抗するように身を捩らせた。が、すっぽり抱え込まれると暴れる気も一瞬で失せてしまう。もともとパフォーマンスであって、本気ではない。それにしてもハルミの腕の中は任務中であることを忘れそうになるくらい居心地が良かったのだ。野生の欠片もなく、お腹を見せそうになる。
にゃん。にゃー。
何をするんだ? って気持ちを込めてハルミを見ると、彼は扉を開けながら「怖いことはしない」と言った。「綺麗にしような」とも続けられ、パッと目を輝かせてしまいそうになるのをおさえる。
どうやら、ハルミはスイを、正確には青灰と白がまじった毛並みの猫を気に入ったらしい。
あっさりと潜入できたことにほくそ笑みつつ、スイは人見知りを表すようにか細く鳴いた。
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