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01 甘粕事件
誰かに何か呼ばれたような気がして、里香はぼんやり目を覚ます。例のバイトの時期は終わり、今はもう9月である。
夢の内容はあまり覚えていないが、何やら自分のことを呼ばれたような、こっそり寝てる授業中、うっかり先生に当てられてしまったような、そんな落ち着かない気分である。
寝ぼけ眼のまま、枕元のスマートフォンに手を伸ばし、
(なんだっけ………『甘酒』みたいな……『酒粕』だったっけ……?とにかくナントカって事件がどうのって……あと、あの時のたぬきの兵隊さん達……日泰寺……自由が丘駅…………)
一体何から検索するべきなのか、眠いせいで何も思いつかないが、
(私、なんだろう、誰かに呼ばれた気がする………名古屋駅、行ってみよっかな……真っ昼間だけど……)
とりあえずスマートフォンのスケジュール機能に『名駅へ行く』とだけ打つ。曾祖母の読経の声、母の料理の香り。まだ早朝だ。もうひと眠りして、着替えたら名駅へ行ってみよう。日本史の教科書もきちんと持っていったほうがいいのだろうか。
(三浦先輩に聞いてみよっかな………)
『なんか「甘酒」みたいな「酒粕」みたいな名前の軍人(?)っているんですか?』
可愛い「おはようございます!」というアイコンと一緒に送られてきた朝一番のショートメッセージを読んで、洋一は寝ぼけ眼で沈思し、数秒後にがばっと飛び起きる。
『何かあったの?』
『なんかよくわかんないんだけど、自由が丘駅から名古屋駅に、ちっちゃい子が来るから、私が案内して、みたいな夢を見ちゃって……』
何とも要領を得ない返事と共に、自分でも事の次第を理解してないのか、ハテナマークの入ったアイコンが里香から送られてくる。
『甘粕事件』
関東大震災後の混乱の最中に起きた事件。近代政治史の闇にして汚点。
アナーキスト、無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝、そして大杉栄の甥の小さな子供までもが殺された凄惨で謎の多い事件。大正時代の東京で起きたそんな事件のことを、何故いきなり、とスマートフォンの日付を見て気付く。
『9月16日』の晴れ渡った朝。
だがしかし、自分は残念ながら中世史専攻である。ある程度の日本史の知識はあっても、詳しいことはわからない。院のゼミ仲間の近代政治史担当はもう起きているだろうか。
『僕も一緒に行くよ』
反射的にそう送って、汗だくのパジャマを脱ぎ捨てて、スマートフォンとタブレットの充電を確認し、思わず手を止める。
例の真夜中のバイト以外で里香に会うのは、実は今日が初めてである。
「服………どうしようかな」
思わず頭を抱えるが、趣味の書道で使う墨汁が袖などについてなければ良い、ということにして、友人と合コンの数あわせなどで連れていかれる時などに着ていくシャツを引っ張り出す。
そして、机の上にあった塩飴など一緒に、愛用の極細筆ペンとメモ帳をリュックに放り込んだ。
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