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02 洋一と宗一
「あら珍しいわねえ。こんなに早く」
曾祖母が目を丸くする。
「うん、ちょっと出掛けるところがあって……」
仏壇の前の座布団に腰掛けて、若き曾祖父に手を合わせる。
(何か呼ばれたような気がしたけど、よくわかんないんだよね……)
あのバイト以降、どうも自分は電車にまつわる不思議な事柄と縁があるらしい。これもたった一晩だけ出会った、朗らかで優しい『お盆の秘密の電車』の運転手こと曾祖父の血の為せる技なのだろうか。
(三浦先輩来てくれるって言ってたけど……そういえばお昼に会うの初めてだった………)
「こないだの男の子かい?」
「何でわかったの、大おばあちゃん」
「しっかり紅は塗ったかね?」
「あっこないだ買ったんだった。せっかくだしこういう時には使ってもいいよね……じゃあ、紅に合うようにきちんと服とバッグ選ばなきゃ……」
「まったく、こういう時じゃなくて、どう言うときに使うのかね」
仏壇の写真の曾祖父までもが笑っているように見える。
「そ、そうなのかな。メイクしてこなきゃ」
パタパタと立ち去る曾孫を愛おしげに見守って、曾祖母が写真に向かって微笑む。
「あなたが繋いでくれた縁です。あの国鉄ボーイ君とは、今でも仲良くしているそうですよ」
熱い熱い夏の名古屋駅。地上に出た途端に日干しにされてしまいそうだ。
(このあたりかな………)
少年の顔は何となく記憶にあるような、ないような、そんな感じで地下鉄の駅の改札周辺をぐるぐると里香は歩く。
「池野さん!」
振り返ると、今まではJRの札をかけた軽装姿しか見たことがなかった青年、三浦洋一が立っている。
「あ、えっと、ごめんなさい。呼び出すことになっちゃって」
「……いや、今回はお盆の時よりもちょっと『難しい』感じがしたんだ。あ、うちの院仲間の近代政治史の加藤が起きたっぽい。事件の資料、送って貰うから………」
「えっ、そんなに……難しいの?」
「大正時代の事件だから……ここに来るまでに調べてきたけど、甘粕事件の被害者のお墓が日泰寺にあったなんて僕も今日知ったよ」
「あま……かす………事件?」
「………うん、まあ、高校の日本史じゃ、あまり深くは扱わないよ。謎が多くて。でも、その少年の名前は調べてきたよ」
そう言って、洋一は声を上げる。
「………橘君!橘宗一君はいるかい?」
すると、
「はい、ボクです。あの、キセルしちゃったんですが、誰も気づかなくって……僕……お金持ってなくて………」
いきなり誰もいなかったはずの真後ろから、返事が返ってくる。幼稚園の制服にも似たスモッグと帽子に、何故か小脇に年季の入った女の子用の上着を丁寧に畳んで抱えた小学生くらいの少年が、ぺこりと頭を下げた。
「宗一君っていうの?」
「はい」
「たぬきの兵隊さん達は親切にしてくれた?」
「はい。それで………」
「行きたい場所があるの?」
「………あるけど、わからなくって」
「わからない?ちょっと待ってね」
思わず里香は洋一を見る。洋一が膝をついて、少年と視線の高さを合わせながら聞いた。
「………君のおじさんの名前と、おばさんの名前を聞いてもいいかな。………みんなにはもちろん内緒だし、ここの警察はいきなり誰かをとっつかまえて牢屋に放り込んじゃダメになったんだ。わかるかな」
その言葉を聞いてやっと安心したのか、宗一、と呼ばれた少年が答える。
「………大杉のおじさんと、伊藤のおばさん」
「大杉栄さんと、伊藤野枝さんで、間違いない?」
「………うん。おにいさんは、憲兵さんとか、ナントカしゅぎしゃ、とかじゃ、ないよね?」
思わず洋一が笑って頷きながら答える。
「僕の名前は三浦洋一。宗一君とよく似てるね。洋風の洋に、君と同じ一文字の一だよ。こっちは池野里香さん。たぬきの兵隊さん達をご案内したのは彼女なんだ」
書道教室の手伝いをしているせいか、洋一は小さな子供の扱いに随分と慣れているらしい。
「行きたい場所があるなら、僕と彼女がお手伝いするよ」
里香も頷く。
「あのね、ボク………おじさんと、おばさんに、渡さなきゃって思ってて」
「渡す?」
「………大杉のおじさんのお家のマコちゃんの上掛けなんです。………あの日、おじさんがこれを貸してくれて…でも……」
すると、洋一がそっと膝を地面について、静かに言う。
「君に、とんでもなく恐ろしいことが起きたのは、知ってる。……だから、辛かったら、言わなくてもいいんだよ」
そして、そっと振り返ってタブレットをリュックから引っ張り出すと、少しばかりあれこれ操作してから里香に渡す。
『甘粕事件〜大杉栄氏、伊藤野枝女史および橘宗一少年殺害が同時代に及ぼした影響について〜』
洋一が囁く。
「うちの院の仲間が送ってくれたんだ」
「…………さ、殺害……って、えっ、この、宗一君が!?」
「池野さん、気をつけて読んでね。ちょっと……エグいかもしれない」
里香の顔から血の気が引く。
「お墓が日泰寺にあったなんて、僕も知らなかったけど……」
「ボクのおとうさまの在所がこのあたりなんです」
「ああなるほど………橘さんって名字の人、学年に一人はいたなあ」
「おとうさまとおかあさまは、毎年お盆には会いに来てくれるんです。でもボク………大杉のおじさんと伊藤のおばさんに、ごめんなさいって言いたくて、マコちゃんの上掛けもお返ししないと………それに、ボクが足手まといになっちゃって、おじさんもおばさんも捕まっちゃった。それで……」
宗一少年の目に涙が浮かぶ。里香はそんな少年の手を、そっとさすってやった。
「宗一君のせいじゃないからね。何かちょっと甘いもの………って食べれるのかな」
すると、少しばかり遠慮がちに、だがはっきりと、宗一少年が言う。
「………果物は、いやです。あの日はすごく暑くて、おばさんがボクのために、果物屋に行かなかったら……ボク達、怖い人に捕まったりしなくて、そのまま、きちんとおうちに帰れたはずだから………」
里香が読んだ資料にも、『伊藤野枝が果物屋に立ち寄っているところを憲兵が捕縛、連行した』とあった。可愛い甥っ子に、ひんやりとした果実を買ってあげろうとしたのだろう。歳よりもずっと聡明なこの甥を、夫妻はきっと、目に入れても痛くないほどに可愛がっていたに違いない。自分には兄弟がいないが、こんな弟がもしもいたら、間違いなく猫かわいがりしていたに違いない。ふとそんなことを考えながら、里香は言った。
「じゃあ、いいお菓子をいっぱい買っていこうか」
「ウン!」
「おじさまも、おばさまも、すごい有名人だからね」
「あっじゃあ……お花も供えないと。でも………お墓の場所は?」
里香が聞くと、洋一が口元に笑みを浮かべて答える。
「それを調べて貰ってた。そろそろ加藤から電話が来る……同じゼミの近代政治史担当なんだ。明治維新から戦後までだったかな。この事件について急いで調べてくれたら、学食のチケット1週間分と交換するって言ってやったんだよ」
『バイトの先輩』というよりも、一介の『大学院生』の顔になって洋一が言う。その、はじめて昼間に観る彼の快活な笑顔に、思わず里香が瞬きしていると、宗一少年が言った。
「おにいさんは大学を出てるの?すごいなあ」
すると口元に笑みを浮かべて
「そこのおねえさんも大学生だよ。すごいよね」
洋一が言った。宗一少年の顔がぱっと明るくなる。
「わあ、すごいや!!」
少年の生きた時代、女性が大学に行くことは多くはなかった。尊敬のまなざしでキラキラ見つめられ、里香はこそばゆくなってしまう。そこに、洋一の電話が鳴る。
「………ねえ、たまにお墓参りに来る人達が持ってるけど。あれはなあに?」
「電話なの。写真機だってついてるし、メール……えっと、お手紙だって送れるし、海外にだって繋がっちゃうのよ」
「すごいなあ。電話機かあ。おとうさんのお仕事すごく楽になるのかな。おとうさんは、貿易のおしごとしてたんだ。ボクも、アメリカに住んでたんだよ」
「アメリカに!?いいなあ……私も交換留学でどこか行こうかなあ。英語の成績良くないけど……」
「大杉のおじさんはロシア語をやると良いってボクによく言ってた。一番『インタァナショナル』だって」
「そうなの?」
思わず洋一がそんな二人を見つめて口の中で笑いを噛み殺し、真顔になって電話に出る。
「もしもし、加藤?………うん、朝から起こしてごめん。ちょっと色々質問があって……わかった。食券1週間にスタバのチケット……は?合コン?歴史が好きな女の子を紹介しろ?」
里香が振り返る。そして、タブレットをメモ機能に切り替えて指先で描く。
『好きな時代は?』
「え、ん?あ、加藤は近代史だけど」
『戦国から明治維新あたりならひとりいる』
「オッケー、加藤、今話つけた。合コンは無理だけど歴史好きな女の子いるって。戦国から明治維新って言ってる………いや、何で「今」って、いやいやいやいや誤解だって、違う、違わないけど違うって!で、まあ、とにかくどうする?……明治維新ならまかせろって」
『刀は?』
「刀……そういうことか。最近流行ってるもんなあ、加藤は持ち主のほうに詳しいな。新撰組とか?」
「他にも色々……大河も観てるし。あっでも、あの、『刀剣女子』って呼ばれるのはNGなので……それだけ、教えておいてあげて……」
「もしもし加藤?………ああ、そうそう、例の刀のゲームをダウンロードしとくんだ。攻略サイトとか見とけよ。で、紹介する女の子を絶対に『刀剣女子』って言っちゃ駄目だ。……把握した?よし、じゃあ例の場所は?えっ、静岡?……東静岡駅?静岡駅でタクシーでもオッケー……って、なんでそんな場所に………」
思わず洋一が腕時計に目を落とす。
「………わかった。あとは電車で聞くよ。じゃあ」
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