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05 アイスと富士山
「ほら、よーく見て」
「わあ………!」
車窓にペタリと貼り付いた宗一少年が声を上げる。
「富士山!」
「見るのははじめて?」
「ウウン。おとうさまやお母さまと一緒にアメリカから帰ってきたときに、お船の上からみたの」
「大正時代だもんね。今より色んな場所から見れたんだろうなあ」
「でもボク、こんな素敵な汽車から富士山が観れるなんて思わなかったよ!あっ隠れちゃった」
「また見えるよ。ほら、アイスも溶けてきたよ。一緒に食べよう」
そんな二人に洋一が言う。
「お墓は4時に閉まるけど、静岡駅からタクシー使えばちょっと時間あるし、駅ビルで買い物しようか」
「駅ビル?」
「百貨店……って大正時代にもあるよね多分………あんな感じの大きいところだよ」
「ボク浅草の凌雲閣、登ってみたかったなあ。ねえ、エレベーターはあるの?」
「あるよ!」
『甘粕事件に巻き込まれて不運にも非業の死を遂げた』少年に関する記述はほとんど残っていない。まさに覚王山の墓碑くらいである。5年ないしは6年のたった短い間、どのように生きたのか、どんな性格だったのか、たった数枚の写真以外に、資料などはないに等しい。
洋一のゼミ仲間から
『………いや今めっちゃ調べたけどやっぱ墓くらいしかわかってないっぽい。おまえ中世専攻じゃなかったっけ?妙なこと調べてんなあ』
とタブレットにメッセージが飛んでくる。目の前に『生きた資料』が目をきらきら輝かせて新幹線の窓に張り付いて富士山を眺めているだなんて思わないだろう。
(資料………)
この素直で朗らかな少年がただの『資料』であってたまるか、とふと洋一は思う。たった一桁の生涯の後にやって来た不思議な日。自分がやることは、専門家なら何を引換にしても知りたがるであろう謎多き事件の詳細を、このいたいけな少年から聞き出すことではなく、今日一日をとても楽しく過ごさせてあげることである。
どうやら里香もまた同じ様な気持ちらしく、
「列車好きなの?リニア鉄道館とか連れて行ってあげたかったなあ。建物の中にいっぱい列車が展示してあるの」
「建物の中に?」
「ほら、こんな感じ」
タブレットで公式サイトを見せている。
「列車の嫌いな男の子ってそんなにいないよ」
「だよね。そういえば、何でだろう。女子でもたまにいるけど……私はまあ、ちょっとだけ好きかなあ……好きになった、というか」
なんとなくそんな彼女の言葉が面映ゆい。自分に向けて言われた言葉ではないのに、きっと毎年JRでバイトしているせいで、電車に一種の愛着があるせいだろう。
「………私、何かに夢中になったりとか、そういうことあんまりなかったんだけど、すごく、この前のバイトで、何か色々考えちゃって」
朝の光が差し込む無人の名古屋駅で、0系新幹線を見送りながら朝の光にきらきらと輝いていた洋一の筆ペンのキャップ。何故か不思議と印象に残っている。
「とりあえず、英語もっと頑張ってみよっかな。TOEIC近いし。あと、もっと地域史も勉強しなきゃ。正直、なんとなく選んだゼミなのに、先輩みたいになんかもっとこう、何か……誰かの、役に立てるといいな」
顔が真っ赤になりそうな洋一が少し早口で言う。
「僕の留学先はイギリスだったなあ」
すると二人が同時に顔を上げて聞いた。
「ワア、いいなあ!」
「紅茶は美味しかった?」
「紅茶は本当に美味しいしやたらお菓子が出てくるよ。でも、ホテルで出されたコーヒーを試しに飲んでみたら泥みたいな味がしたっけ。食事は……日本の方が美味しいよ、うん」
「噂は本当だったんだ……イギリス飯っていうよね…」
「宗一君の顔くらいの大きさだし、本場のフィッシュアンドチップス」
「食べきれなくない!?」
「ハロッズには行ったの?」
宗一少年が聞く。貿易商の息子なだけあって、もしかしたら幼いながらもそういった方面にも詳しいのかもしれない。
「イギリス王室御用達の百貨店のことだね?ああ、そっか、もう大正時代にはあったんだ。貧乏旅だったから、外から眺めただけだけど、ちゃんと見たよ。高級そうな陶器とか、バッグが並んでて……」
「ハロッズ……あっ、私の同級生もトートバッグもってた様な…テディベアの柄の……」
窓の外に、再び幾つもの煙突の向こう側に富士山が見えてくる。ふと、宗一少年が呟いた。
「………『時代はインタァナショナル』っておじさんはいつも言ってて、いろんな国に行ったのに、お墓は日本一のお山の近くにあるんだね。おばさんも、ホントはもっと遠い田舎のほうから東京に出て来たって行ってたっけ……」
送られてきた資料には『遺骨奪還事件があって菩提寺から納骨を拒否され、一同の骨は近くの縁もゆかりもない公営施設に葬られた』とある。そこに、少年の骨も含まれているのか否かもよくわかっていない。
けれど、日泰寺にある墓碑はまごうことなきこの少年の父母が建てたものである。やはり、父母の建てた墓の方に行ってしまうのだろう。
「あっ次が静岡駅だ。ここで降りて、ちょっと色々見てから、タクシーに乗ろう」
「タクシー!ボク知ってる!おとうさまから聞いたの。有楽町に会社が出来たって。すっごいおとくいさまがいらっしゃる時だけ頼むんだって言ってた」
「へえ、大正時代にはもうあったんだ……」
思わず里香がちょっとびっくりしながら、残ったおやつをひとまとめに袋に詰めていく。
「アメリカのカッコいいクルマで……」
「残念だけど今は普通の日本車なんだよね。あっ、でも、今の時代の車に乗ったことってある?」
「ないけど、ボク、一度タクシーに乗ってみたかったの!嬉しいな………!」
無政府主義者、アナーキストの甥とは言えども、アメリカ育ちの貿易商の息子である。この子が成長していたら、一体どんな大人になったのだろう。ペットボトルに残ったお茶と一緒に切なさを飲み込んでから、里香が思わずそんな少年に微笑みかける。
『甘粕事件』の発覚も、宗一少年の母親であり、アメリカ国籍を持っていた大杉栄の妹でもある大杉あやめ女史が、突如行方不明になった息子を探すべく当時のアメリカ大使館に駆け込んだことがきっかけらしい。そうでなかったらきっと、この事件は、文字通り完全に闇に葬られていただろう。宗一少年が偶然巻き込まれていなければ、である。思わず自分と一文字違いの名前の少年の頭を撫でて、洋一は言った。
「またいつか、新幹線に乗るときは僕らを呼ぶんだよ」
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