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00 覚王山の知られざる碑文
足元に、たぬきが一匹やってくる。
兵隊達の声が、その少年は少し苦手だった。父と母が立ててくれた慰霊碑の後ろにそっと隠れるように腰かけながら、少年はたぬきに聞いた。
「どこからきたの?」
長い間、この日泰寺の境内の草むらで眠っていた時期を思い出す。GHQから軍人墓地を守り通した気骨ある当時の和尚さんも、自分の「曰く付き」の慰霊碑は隠さねばと思ったのかもしれない。
そしてそのまま、近所の主婦が犬の散歩中に見つけ出してくれるまで、自分はそこで何年も何年も眠っていたのだ。そこに、たぬきを探してきたのか、一人の兵隊がひょっこりと現れる。
「ん?どうした坊主?こんなところで」
思わず固まる自分の周囲に、
「そいつぁ俺の相棒でさぁ。坊主も『例の電車』で帰ってきたのかい?」
兵隊達がやってくる。思わず立ちすくんでしまう。
「………ああ、俺たちが怖くて隠れてたのか。そいつはすまんなあ」
「なんぞ兵隊に怖い思い出でもあるのかな。ぶたれた、とか」
「…………あ、あの、その」
「いいとこ育ちの坊っちゃんみたいだけど……その慰霊碑は……」
『宗一ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年九月十六日ノ夜 大杉栄 野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル』
兵隊達が顔を見合わせる。そしてざわつきだした。
「もしやあの、甘粕殿の………アア、そうだった思い出した。子どもが一人巻き込まれて、大騒ぎだった」
「ありゃあ酷い地震だった。色々変な事件も一緒に起きたっけなあ………」
「うちにも横濱から来た親戚が一時期住んでたよ。地震の後何やらおっかない流言飛語で皆ピリピリして、急に治安が悪くなったって、そっちの方が怖かったって言ってたなあ」
「………ああ、だから坊っちゃんは兵隊達が怖かったのかね」
雰囲気につられたのか、足元でたぬき達まで右往左往している。
「『かの少年』の墓碑がよもやここにあったとは。…………さすがのあの和尚殿も、こればかりはGHQから隠しておられたのだろうな」
一番年かさの兵隊が顎に手を当てる。
「何ぞ英語が掘られてますな。『帰国』とありますが」
「うむ……運悪くあの事件に巻き込まれたのかね。我々みたいなしがない木っ端兵卒には事情がいまいちわからぬ事件だったが………」
一番若い兵隊が、問いかける。
「僕にも君の年頃の弟がいたナァ。出征して、お別れしてしまったけれど。君はお父さんとお母さんを待っているのかな。もうすぐお盆は終わってしまうけど………」
少年が小さく首を振る。
「……お父さんとお母さんには、もう会いました」
年頃の少年よりも、ずっと大人びた答えが返ってくる。
「じゃあ、他に用があるってことだね」
「…………」
「ウーン、そうだ、もしも『行ってみたい場所』があるのなら、名古屋駅に行くと良い」
「………名古屋駅?」
「そこに『自由が丘駅』があるだろう。そこの地下の列車に乗って、名古屋行きだ」
「案内人のお姉さんは優しそうなお嬢さんだった。きっと君を助けてくれるだろう」
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