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忘れるが語る
「……うぁ~~。ねむ……」
市瀬幸。
俺は、そこら辺にいる普通の会社員である。
朝起きて――。
食事をして――。
出勤して――。
帰る――。
だが、今日は普通ではなかった。
本当に今日だけ、たまたまだ。
「夜勤……」
ここはとあるビルの三階。
周りに多く立ち並ぶビルの谷間からは赤い月が顔を覗かせている。
時刻はもうすぐ0時を迎えようとする頃――。
「あと3時間か……」
月に数回、夜勤が待っている。
街が暗闇に包まれ、眠りへと落ちる時間に仕事をする。
昼間の忙しさとは裏腹に退屈を感じるほどの静けさだ。
「あ、そういやどこに入れたっけな」
そんな退屈さを物語るように、気にならないことも今は気になってしました。
とりあえずいつも入れる場所を探る。鞄の――。
「あれ?ない」
いつもなら無意識でポケットに入れるはずだが、また今日に限っては違っていたようだ。
「ん?ほかのところには……」
ない。
そこにもソレがなかった。
「まさか……閉めてないのか?俺」
本当に今日はどうかしていた。
だがどうだろう。これは本当に自分がおかしかったのか?
それとも、何かの悪戯か――。
鍵を忘れ、部屋の鍵を閉め忘れるとは。
そう、本当に――。
「ったく。どうかしてるな俺は。まさか部屋の鍵閉め忘れるなんて、気が緩みすぎてるな」
この時は、ただ閉め忘れただけと思っていた。
あと3時間もすれば帰るのだから。
”大丈夫さ。閉め忘れたからといってなにもない”
そう思っていた。
窓の外には赤い月がまだ覗いている。
「……」
あと2時間。
相変わらず俺は「帰ったら何か作って食べようか」なんてどうでも良いことばかり考えている。
あと1時間。
仕事終了と帰宅までのカウントダウンを始める。あと50分あと40分…と。
あまりの退屈続きに思い始める。”夜は平和だ” と……。
「はぁ……長かった」
あと10分。
すぐに帰宅できるように支度を始める。静かで退屈、何も変化の起こらない空間から早く出たい。
深夜3時――。
エレベーターに乗り込んで1階へと降り、仕事場を後にする。
夜の街は嫌いだ。
光源がなければそこは深淵の闇。
何が出てこようが、何があろうが不思議ではないし、街が静寂に包まれて何も語らない雰囲気は居心地が良くない。
睡眠モードに入った街中を歩けば、目立つのは光源と騒いでいる者たち。
理解できない。色々と――。
そんなことを考えながら足を動かしていれば、いつの間にか自分の住むアパートに到着していた。
「……」
とりあえずドアノブに手をかける。
少し引くと、
「やっぱりか……」
少し隙間が空いた。隙間からは何も見えない、見せないかのごとく黒が覗く。
思った通り、鍵は閉まってなかったようだ。
「どうかしてるな……」
「出勤前に仮眠したことが問題なのだろうか」なんて思いながら、扉を開く……。
「ん?」
瞬間――――――。
仕事と歩行で疲労した足に何かが当たった感触があった。
それは鉄の塊のような堅さはなく、段ボールという感触や角も存在しなかった。
どうしてだろう。これは生物の本能なのか。
知っているはずないのに、この感触の正体がわかってしまう。
「っ!?」
完全に靴の上に乗っているソレから離れようと足首を動かすと、粘り気のやや強い液体の音がする。
いや、仮に見ても、それが薄暗くてよく見えなくても――――、
”液体はきっと赤だろう”
当たってしまった。わかってしまった。
本当に今日に限って、悪い夢でも見てると言うのか。
「な……んだと」
鍵をかけ忘れ――、退屈な夜勤を終わらせる――。
赤い月が昇る街を歩いて帰り、施錠されていない我が家の扉を開ける。
待っていたものは、
女性の遺体であった――。
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