忘れるが語る

1/3
前へ
/5ページ
次へ

忘れるが語る

「……うぁ~~。ねむ……」  市瀬(いちのせ)(こう)。  俺は、そこら辺にいる普通の会社員である。  朝起きて――。  食事をして――。  出勤して――。  帰る――。  だが、今日は普通ではなかった。  本当に今日だけ、だ。    「夜勤……」  ここはとあるビルの三階。  周りに多く立ち並ぶビルの谷間からは赤い月が顔を覗かせている。    時刻はもうすぐ0時を迎えようとする頃――。    「あと3時間か……」  月に数回、夜勤が待っている。    街が暗闇に包まれ、眠りへと落ちる時間に仕事をする。  昼間の忙しさとは裏腹に退屈を感じるほどの静けさだ。    「あ、そういやどこに入れたっけな」  そんな退屈さを物語るように、気にならないことも今は気になってしました。  とりあえずいつも入れる場所を探る。鞄の――。 「あれ?ない」  いつもなら無意識でポケット(ここ)に入れるはずだが、また今日に限っては違っていたようだ。 「ん?ほかのところには……」  ない。  そこにもがなかった。  「まさか……閉めてないのか?俺」    本当に今日はどうかしていた。  だがどうだろう。これは本当に自分がおかしかったのか?  それとも、何かの悪戯か――。  鍵を忘れ、部屋の鍵を閉め忘れるとは。  そう、本当に――。 「ったく。どうかしてるな俺は。まさか部屋の鍵閉め忘れるなんて、気が緩みすぎてるな」  この時は、と思っていた。  あと3時間もすれば帰るのだから。  ”大丈夫さ。閉め忘れたからといってなにもない”  そう思っていた。  窓の外には赤い月がまだ覗いている。  「……」  あと2時間。  相変わらず俺は「帰ったら何か作って食べようか」なんてどうでも良いことばかり考えている。    あと1時間。  仕事終了と帰宅までのカウントダウンを始める。あと50分あと40分…と。  あまりの退屈続きに思い始める。”夜は平和だ” と……。  「はぁ……長かった」  あと10分。  すぐに帰宅できるように支度を始める。静かで退屈、何も空間から早く出たい。  深夜3時――。  エレベーターに乗り込んで1階へと降り、仕事場を後にする。  夜の街は嫌いだ。  光源がなければそこは深淵の闇。  何が出てこようが、何があろうが不思議ではないし、街が静寂に包まれて何も語らない雰囲気は居心地が良くない。  睡眠モードに入った街中を歩けば、目立つのは光源と騒いでいる者たち。    理解できない。色々と――。  そんなことを考えながら足を動かしていれば、いつの間にか自分の住むアパートに到着していた。   「……」  とりあえずドアノブに手をかける。  少し引くと、   「やっぱりか……」    少し隙間が空いた。隙間からは何も見えない、見せないかのごとく黒が覗く。  思った通り、鍵は閉まってなかったようだ。   「どうかしてるな……」  「出勤前に仮眠したことが問題なのだろうか」なんて思いながら、扉を開く……。 「ん?」  瞬間――――――。  仕事と歩行で疲労した足に何かが当たった感触があった。  それは鉄の塊のような堅さはなく、段ボールという感触や角も存在しなかった。  どうしてだろう。これは生物の本能なのか。  知っているはずないのに、この感触の正体がわかってしまう。    「っ!?」  完全に靴の上に乗っているから離れようと足首を動かすと、粘り気のやや強い液体の音がする。  いや、仮に見ても、それが薄暗くてよく見えなくても――――、  ”液体はきっと赤だろう”  当たってしまった。わかってしまった。  本当に今日に限って、悪い夢でも見てると言うのか。   「な……んだと」  鍵をかけ忘れ――、退屈な夜勤を終わらせる――。  赤い月が昇る街を歩いて帰り、施錠されていない我が家の扉を開ける。  待っていたものは、  女性の遺体であった――。  
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加