1 泣き笑い

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 落下地点に取り残された僕は教えられたとおりにサユリさんのお宅を訪ねることにする。このままでは雨に濡れる一方で、いくら空は晴れているといってもじっとしていればさすがに体の芯まで冷えてくる。  何処か雨宿りをする場所が必要だった。  初めて訪れる街を一人で歩くことほど心細いこともそうそうない。ましてや、自分が意図せずにやってきた街であるのならなおのこと。昔、出先でまったく違う方向のバスに乗ってしまい、見知らぬ街の聞いたこともないバス停で降車してしまった時とよく似ている。あの時はまいった。途方に暮れた。  あれはなんと言う街だったか。  せっかくの美しい街並みも、今の僕の目には全く入ってこない。それよりもユキさんに教えられた道を正確に歩くことで精一杯であった。  どうやらサユリさんの家は丘の上にあるらしかった。  それにしても急な坂道である。おまけにうんざりするほど長い。丸い果実の一つでも落とせば、さぞかし勢いよく転がっていくことだろう。見上げても急勾配すぎるのかちっとも終わりが見えない。横を見れば、眼下に街が広がっている。  やっとの思いで坂を登りきれば、(なんと!)家、小階段、家、また少し行って小階段。どこを見ても階段ばかり。ほれぼれする高低差。  こんなところで迷子になった日には目的地にたどり着く前に疲労困憊で倒れてしまうにちがいない。  危機感を抱いた甲斐あって、多少迷いはしたものの、一時間ほどで目的のサユリさんのお家を見つけることができた。広大な庭には緑の多い街の中にあっても、目を惹かずにはいられないほど色とりどりの花が咲いていた。  しかし、僕はインターホンを押すという行為がひどく苦手であった。押すタイミングはいつがいいのか、押した後、家主が顔を見せるまでの間はどんな顔で待っていればいいのか、考えているうちにいつしかインターホンそのものが嫌になってしまった。  丸ボタンひとつ押すことができずに、門の前でオロオロとしていると図ったように玄関の扉が開いてご婦人が顔を出す。 「あら? どうしたの、そんなところに立っていないで中に入りなさいな。濡れたままでいたら風邪を引いてしまうでしょう」  ご婦人の勢いに押されるままに家の中へと通される。  通された部屋の正面には大きなガラス窓があり、そこから鮮やかな庭が一望できた。僕がこの空間にいることが場違いに思えるほどお洒落な部屋である。そしてちょっぴり懐かしいおばあちゃんの家のような匂いがする。  おばあさんに問答無用で座らされたソファは誰がどう見ても高級なもので、濡れ鼠の僕が座るのははばかられて、ふかふかなはずなのにお尻がムズムズして仕方なかった。 「サユリさんですか?」 「そうですよ。私がサユリです。リリィと呼んでね。私のことはこの街の誰かに聞いたのね。うん、きっとそう。この街に初めてやって来た人は私のところに来るようになっているもの。ここに来るまでの坂道はたいへんだったでしょう。それじゃあ、今度はあなたの名前を教えてもらおうかしら」 「えっ! あっ、はい。ソラと言います。此処の場所は、その、ユキさんという子に教えてもらって」 「はいはい。ユキちゃんにね。あの子もああ見えてこの街の古株だから」 「あの、この街っていったい……」  と控えめに尋ねてみる。 「そうね、まずその疑問からよね。わからないことだらけで不安でいっぱいでしょう。うちに来る人はみんな同じような顔をしているもの。でも心配しなくても大丈夫よ。きっと最後には笑えるようになるから。えーっと、なんの話だったかしら? そうそう。この街のことよね。なんて言ったらいいのかしらね。想像上の街とでも言うのかしら。具体的に存在する場所じゃなくて、みんなの想像が生み出した場所。それは何処にもないとも言えるし、何処かにはあるとも言える。誰が名付けたか、この街のことはみな『617番街』と呼んでいるわ」  リリィさんの話を理解しようとするけれどなかなか事態を飲み込めない。結局僕は何処にいるのだろうか? この617番街とやらが想像上の街だとするなら、そこに存在する僕もまた想像上の存在にすぎず、現実世界には別の僕が存在しているのか? それとも現実世界の僕がそのまま想像上の世界にやってきてしまったのか。 「どうして僕はこの街に来てしまったのでしょう?」  思い返してみても心当たりがない。  ただ単に忘れているだけかもしれないけれど。 「此処にやって来る多くの人は心に傷を抱えているわ。不器用でつまづいた後に立ち上がるのが苦手な人ばかり。これはあくまで私の予想になってしまうけれど、そんな人たちが立ち直るまでの手助けをしてくれる場所じゃないかってそんな風に思うの」  リリィさんは「必ずしもそういう人たちばかりでもないけれどね」と付け加えた。  そう言われると此処に来る以前に何か悲しいことがあったような気がしてくる。ガラス窓にうっすらと映し出された僕はまるで軟体生物のようにふらふらとして、俯きがちな猫背男である。これも何か大切な拠り所を失ったせいなのだろうか。 「帰ることはできるんですか?」 「ふふふ。安心して。帰ることはできるから。でも、少し時間がかかるかしら。今はどうして自分がこの街にいるのか思い出せないのでしょう? 記憶のすべてを思い出せばきっと帰れるわ。まずはゆっくり心を落ち着けて休むことが肝要よ」  僕の頭はもうこれ以上こんがらがったら解くことができないほどこんがらがっていた。もう思考回路はぐちゃぐちゃでショート寸前。  今の状況を整理したいけれど関係ないことまで浮かんでくる。  知らない町。洗濯物干しっぱなしだっけ? 悲しいことの理由。虹の色の順番。ここに来る途中で見かけた何屋かわからない看板。帰れない。……。 (知らない人に会ってばかりで緊張しっぱなしなんです)  もう家に帰って自分の好きな本を読んで、お気に入りの音楽を聴いていたい。何が言いたいかと言うと、つまりは僕を一人にさせて。 「そうだ。お腹減ってるんじゃない? ちょうどおいしいパンがあるのよ。つい買いすぎちゃってね。だってね、一つ150円のパンが一袋に5個入って500円なのよ。思わず買ってしまうでしょ? 冷静になると、一人暮らしのおばあちゃんには食べきれない量なの。手伝ってもらえると嬉しいわ」 「……では、いただきます」  せっかくのご厚意無碍にするわけにもいかない。  それを口にしたらもう元の世界に戻れないということはないだろうか。  リリィさんの言うとおり、お腹も空いていた。  一抹の不安が頭をよぎる。  しかし断ることもできない。よほどのことがない限り、断るということをしない。皆、断ると話が進まないことを知っているからだ。話が進まないから終わることもない。それでは困る。 「そうこなくっちゃ。若い人が遠慮ばかりしていてはダメよね」  リリィさんがにこやかにキッチンから山盛りのパンを持ってくる。  パンの山からふかふかのデニッシュ生地にたっぷりシナモンシュガーのかかったパンを選んでかじる。シナモン独特の甘い香りが鼻を抜け、疲れた体に染み渡る。優しい甘さに涙がこぼれそうになる。 「しばらくこの街にいるとなると、住む場所が必要になるわね」  紅茶のおかわりをティーカップに注ぎながら、リリィさんが言った。  カップを受け取ると湯気とともにいい香りがする。 「……住む場所ですか」  まさか想像上の街で居を構えることになるとは。  なんだか本当に帰れるのか心配になってきた。進むべき方向とは反対に突き進んでいる気がしてならない。  リリィさんは立ち上がって、木目のくっきりと浮かんだ艶やかな古い机の右側の引き出しから一つの鍵を取り出した。 「あいにくだけど、今空いている部屋は此処だけなの」  いえ。住む場所を貸していただけるだけでありがたいです。  リリィさんが僕に手渡した鍵には「208」と数字の入ったタグが付いていた。手の中のひんやりとした鍵は妙にしっくりときた。
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