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アパートは少なくとも築50年は経っていそうな外観であった。外壁はヒビ割れていて、隙間からみるみる雨が染み込んでいく。
208の名を与えられた部屋はぬかるんだ泥の足跡が無数に残る廊下の奥、一階の角にあった。僕の隣の部屋は605号室で、そのまた隣は311号室。
部屋番号に統一性がまるでない。
僕の部屋が傷みの激しい朱色の木製扉であるのなら、隣の部屋の扉は細かく傷のついた銀色の扉であった。
まるで別々のアパートの部屋をつぎはぎにしたようなつくりだ。
廊下の一番奥、コンクリートの廊下とぬかるんだ庭とのギリギリの境、僕の部屋の扉を開けば触れてしまいそうなところに洗濯機が置かれている。見るからに年代物の薄茶色の洗濯機は、雨が跳ね上げた泥が飛沫となって玉模様を描き、その場に固定するかのように蔦が絡みついていた。
リリィさんが「あそこにある洗濯機は自由に使っていいから」と言った時には失礼ながら思わず(逆に汚れちゃうんじゃ)と思った。
「それじゃあ何かあったらいつでも私のところに来てちょうだい」
一通りの説明を終えてリリィさんが帰っていく。僕もずいぶんとくたびれていたので今日はもう休もうと自分の部屋に向かう。
「雨が沁みるわ。いつになったら止むのかしら。ああ。また靴を洗わなくちゃ」
振り向くとユキさんがアパートの廊下にいて、その小さな傘をたたんでいるところだった。
「雨の日はどんよりしているから心が暗くなると前々から思っていたけれど、お天気雨でも気分が沈むのね。結局、全部雨が悪いんだわ」
雨に対してぶつくさと言いながら、こちらに向かってくる。
僕に気がつくと、
「やっぱりこのアパートに来たのね」
と言った。
「やっぱり」と言うからにはユキさんは僕が此処に越してくることを予想していたのだろう。
「ユキさんのおかげでなんとかやっていけそうです」
と言えば、
「そう。お互いに早く帰れるといいわね」
と素っ気ない返し。
ユキさんは僕と別れた後も歩き続けていたのか、スニーカーは泥だらけで見るからに水分を含んでいる。彼女の歩いた後に残る靴跡はひときわ小さく、その足跡からはペタペタという音が聞こえてきそうだった。
ユキさんは605のプレートのついた銀色の扉の鍵を開ける。
僕とユキさんはお隣さんらしかった。
扉を開け、半分ほど家の中に入ったユキさんが思い出したように顔を出して、
「このあと空いてる? ご飯を食べに行きましょう。いいお店があるの」
とだけ言い残して、僕の返事も待たずに部屋の中へと消えていった。
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