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2 犬のレストラン
ユキさんに夕飯のお誘いを受けたあと、しばらくの間、ぼんやりと閉まったドアを眺めていた。
太陽が沈んだ後も雨は降り続け、日中、晴れていた頃はお天気雨と良さげな名前をもらっていた雨も、夜になればただの雨でしかない。
どのくらいぼーっと立ち尽くしていたのだろうか。ユキさんが再び扉を開ける音で我に返った。
彼女自身が黒雲となって雨を降らせそうなほど雨を含んで重たくなったワンピースから着替えて、白シャツに若草色のスカートといった春めいた装いで現れる。
真新しい服に着替えたユキさんに連れられてやってきたのは「ハンド」というログハウス風のレストランだった。
お店を隠すほどの楓の大木がひときわ存在感を放ち、道路に面していてもなお、そこがお店と知らなければ素通りしてしまいそうな隠れ家っぷりである。
「ハンド」は617番街の中で最も大きな通りの中ほどにあった。
いわゆるメイン・ストリート。
常磐木が青々とした歩道、その石畳の隙間に落ちた雨が小さな川のように流れていた。勢いよく屋根から滑り落ちてくる雨と合流してまたゆっくりと下っていく。
降り続く雨の行方は何処にいくのか。
目の前を流れていく街路樹の葉の姿を自らに重ねてしまう。
レストランに入る前、ユキさんは僕の方を見て、
「いい? 最初は驚くかもしれないけれど慣れるから」
と言い、本人はお店の中へとスタスタと入っていく。
僕が思うに彼女は少し言葉が足りないと思う。肝心なところを言わないままにどんどんと先に行ってしまう。残された僕ははてなを浮かべて、遠ざかってゆくユキさんの背中を眺めることになる。
どんな驚くことがあるのか教えてくれてもいいのに。これではお店に入りづらくなってしまったではないか。
此処で立ち尽くしていたとてらちが明かなないので、意を決して扉を開ける。
——店内に犬がいた。
より正確に言えば、2匹の犬が立っていた。
小さな木の小屋にL字型のカウンターと小さなテーブル席がふたつ。
カウンターの脇に並べられたお酒の瓶。壁にはいくつかの絵画。天井からぶら下がった丸いランプが仄かに、けれども確かに照らしていた。
そのカウンターの向こう側でシャツとウエイターベストに身を包み、蝶ネクタイという出で立ちをした2匹の犬が忙しそうにお客さんを相手にしている。僕が店の扉を開けたことに気がついて、(驚いたことに!)「いらっしゃいませ」と言うではないか。
子どもの頃に大きな犬に噛まれて以来、彼らとは一定の距離を置いて生活してきた。そのため目の前で料理を作ったり、お酒を出している犬がなんという種類の犬であるかわからない。
二匹とも小型犬と呼ぶべき大きさで、一匹は黒と茶色、もう一匹は黒と茶色にさらに白が混じっていた。
あくせくと働く様はなんとも可愛らしい。
しかし僕は二本脚で歩く犬など生まれてこの方見たことがないし、ましてやフライパンを握ったり、人の言葉を話したりするなんて想像だにしたことがない。
これで驚くなという方が無理である。
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