呪いの車

2/3
前へ
/3ページ
次へ
「サラエボ事件」です。 舞台は当時、バルカン半島のボスニアという小国(州)の首都、サラエボです。 ボスニアは、ゲルマン系の国で、実質オーストリアの支配下にありました。オーストリアのバックにはドイツという大国が控えています。 1914年6月28日、ボスニアを支配するオーストリアは、ボスニアの軍事祝賀会で、「ボスニアよ、うまく戦争の準備はできているか?」というメッセージを込めて、オーストリア皇太子を送り込みました。皇太子の名は、フランツ・フェルディナンド。また妻はゾフィーといいました。 夫婦は、首都サラエボの駅を降り立って、庁舎までを、真っ赤なオープンカーで凱旋することになっていました。 しかし、この様子が面白くない(危機感を感じた)のは、東隣りのセルビアという小国です。セルビアは、スラブ系の国でバックには大国ロシアが控えています。このセルビアからボスニアに刺客が現れたのです。 ズンチャカチャーという沿道パレードは、オーストリア皇太子夫妻をひと目見ようと大変な人だかり。そのなかにまず1人目の暗殺者、敵国セルビアのチャブリノヴィッチという青年。野次馬の中から爆弾を投げますが未遂に終わります。 不穏な空気の中で皇太子一行は、パレードの通過する道路を変更しようとします。しかし、警護する車にうまく伝わらず、皇太子を乗せたオープンカーは道を間違えます。車が停車し、混乱している間に、沿道の角の食料品店の人だかりに潜んでいた敵国・セルビアの青年、プリンティップが、皇太子を乗せた車に飛び込んできました。サイドステップに乗り上げ、ニカッと微笑んで拳銃で、まず皇太子フランツ・フェルディナンドを銃撃、続いて妻・ゾフィーを撃ちました。 銃で撃たれながらもフランツ皇太子は、 「ゾフィー、子どもたちが悲しむじゃないか! 死なないでくれ!」と泣き叫んだといいます。 やがて皇太子夫婦は銃弾に倒れ命を落とすことになったのです。 これがサラエボ事件ですね。 さあ、あとは大変です。皇太子を撃たれたオーストリアは、犯人がセルビア人とわかると宣戦布告。セルビアはロシアに助けを求め、オーストリアもドイツに助けを求め・・・第一次世界大戦の勃発です。 第一次世界対戦の構図 枢軸国 (ボスニア側)ドイツ・イタリア・オーストリア・トルコなど VS 連合国 (セルビア側)ロシア・イギリス・フランスなど       なお日英同盟で日本も連合国側に参戦。 ヨーロッパを戦場にした世界を巻き込む戦争は2000万人という死傷者をだす未曾有の悲劇を生みました。 結果は、連合国の勝利です。 枢軸国は、イタリアが領土問題で裏切り、トルコは撤退・・・。ドイツは孤軍奮闘もむなしく敗北。1919年ベルサイユ条約で2京ドルという天文学的な賠償金で、ドイツはどん底に。 このドイツのどん底を奇跡的に這い上がらせたのがアドルフ・ヒトラーというわけですね。 このあとドイツはベルサイユ条約を破棄して第二次世界大戦へと突入していきます。 さて、皇太子を乗せた真っ赤なオープンカー、その後の行方です。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

42人が本棚に入れています
本棚に追加