呪いの車

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②呪いのオープンカー さて、サラエボ事件で、皇太子夫妻が乗っていたグラーフ&シュティフトという真っ赤なオープンカーのその後の足跡が興味深いのです。 事件後、軍のポチオレック将軍という軍人が、車を修復させて持ってみたが。何度も事故を起こした。 4度目の事故で右手を失ってしまったので、 「この車は処分したほうがいい」と考えた。 「いや、それなら僕が乗るよ、勿体ないじゃないか」ポチオレック将軍の友人スリキスはそう言って笑って車を譲り受けた。しかし半年後、スリキスは事故を起こしひっくり返った車の下敷きになって死んでいた。 それでも、始末してしまうのはもったいない車だ、ということでスリキスの友人の医師は、スイスのカーレーサーに車を売り飛ばした。 カーレーサーは、ロードレースのカーブを曲がりきれず、ふり飛ばされて、首をひねって即死であった。 その後、車好きな農場主が、このグラーフ&シュティフトを買い取った。 ある日、エンジンが止まったので、友人に助けを求めた。 「君は、このスポーツカーを牽引してくれ、僕は引っ張られてハンドルを操作するから」 するとエンジンが急に動きだした。牽引する友人の車に突っ込み、農場主とその友人は死んでしまった。 そして、車はハーシュフィールドという男の手に渡った。 彼はその車の色が真っ赤であることが不吉なのだ、と車をキレイに青く塗装した。 「大丈夫?この車、いわくつきなんでしょ?」 「なあに、ただの迷信さ、さあ乗って」 彼は友人4人を乗せて、友人の結婚式に向かった。 ハーシュフィールドを含めた4人が、途中、車同士の正面衝突で亡くなった。 最後に、修復されたグラーフ&シュティフトのオープンカーは、歴史的遺産として、ウィーン博物館に寄贈された。 もう犠牲者は出ないだろう、誰もがそう思っていた。 博物館案内係のカール・ブルナーは、この車にまつわる「呪い」の話が気に入って、自慢気に車の歴史を話していたという。 しかし、第二次世界大戦の爆撃で、ウィーン博物館は粉々に破壊された。それ以降、カール・ブルナーの姿を見たものは誰もいないのです。 みなさん どう思いますかね・・・この車。                              おしまい
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