アシッド・レイン

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 病院の入院病棟の個室の前には、制服警官が背中で手を組み、脚をやや開いて、近づこうとする者を威圧するかのように立っていた。  カツカツと靴音が響き、その病室に向かって20代後半とおぼしき見かけの、暗いグレーにパンツスーツを着た女が歩いて来た。至近距離まで近づいたところで制服警官が制止しようとする。 「ちょっと。この部屋は関係者以外は立ち入り禁止です」  女は上着の内ポケットからバッジホルダー型の長方形の手帳を取り出し、縦方向に広げた。 「本庁公安機動捜査隊、警部補の宮下と言います。そちらの署長の許可はいただいております」  制服警官はさっと敬礼の姿勢を取った。 「失礼しました! 被害者の関係者の事情聴取ですか?」 「はい。今ユーチューバーさん本人と所属事務所の社長さんがそこにいらっしゃると聞きまして」 「ご本人たちの了解を得て来ます。少しここでお待ちいただけますか?」  宮下がうなずくと、制服警官は病室の中に入り、30秒ほどで戻って来た。そっと宮下に耳打ちする。 「お会いになるそうです。化粧を整えたいので1分だけ待って欲しいと」 「分かりました」 「本庁の刑事、それも公安機動捜査隊が出て来るような事件なんですか?」 「アシッド・アタックという言葉を知ってる?」 「いえ、恥ずかしながら初耳です」 「強酸性の液体を狙う相手に浴びせるという最近のテロの手口です。中東や南アジアでは特に女性の顔を狙って行う例が多い。もし今回の事件がテロなら、うちの管轄ですから」  病室のドアが開き、沈痛な表情の40代ぐらいの女性が宮下に頭を下げた。宮下も深くお辞儀し、入室の許可を求めた。  個室のその病室の中央にバッドがあり、被害者の女性が横たわっていた。その全身は顔も見えない程包帯で巻かれ、まるでミイラのようだった。  何本ものチューブや呼吸器がその体につながれ、本人に意識はないようだ。宮下は被害者の体に向かって深々と一礼し、さっきの女性と、涙の痕がくっきりと顔に残る若いもう一人の女性に向かい合った。 「本庁警部補の宮下と申します。こんな時にいろいろ訊かれるのはおつらいでしょうが、一刻も早い解決のためにご協力下さい」  二人は黙って、それぞれにうなずく。三人は簡易椅子に座って、宮下が手帳に鉛筆を走らせながら質問を始めた。 「今回被害に遭われたのは、夏野原エリカさんのマネージャーである佐伯美穂さん、間違いありませんか?」  さっきの年長の女性が答える。 「はい。美穂ちゃんは私の秘書兼エリカのマネージャーでした。あ、申し遅れました。私はプロダクション・あいあいの社長をしております、山本と申します」  山本から名刺を受け取り、宮下がもう一人の若い女性に視線を移す。 「そちらがユーチューバーの夏野原エリカさんなんですね?」  二十歳になるかならないかという見かけのその女性はうなずき、そして手で顔を覆って嗚咽を漏らした。 「あたしの、あたしのせいなんです。美穂さんは、あたしと間違われて襲われたんです」 「それはどういう事でしょう? もう少し詳しく」  取り乱してまともに答えられないエリカに代わって、山本が説明した。 「つい先日、エリカちゃんの撮影用の衣装を新調しました。パッと見ただけでは分からない程度ですが、前の衣装が痛んで来たので。そういう古い衣装は廃棄するんですが、美穂ちゃんが一日だけ着てみたい、その服で事務所の買い物に行くと言い出しまして」 「だからあの時、美穂さんはエリカさんの衣装を着ていたわけですか?」 「どうせ捨てる物だし、一日ぐらいはまあいいかと、私も思いまして。それがこんな事になるなんて」 「夏野原エリカさんは、誰かに危害を加えると、脅されていた。そういう心当たりは?」 「あります。実はエリカちゃんは墨東警察署の交通安全PR動画に出演していまして」 「動画投稿サイトで公開されていた物と聞いてます。それとどういう関係が?」 「この子はセクシー系ユーチューバーと言われていて、お腹のあたりの肌を露出して、いわゆるへそ出しルックとミニスカートで激しく動き回るパフォーマンスで最近急に人気になったんです。ある女性の人権擁護を訴える団体、いわゆるNPOですね、そこから直接、墨東署に文書で抗議があったんです。あんな、ふしだらな格好の女性を警察の啓発活動に使うのはけしからんとか、そういう内容の抗議で」 「いつ頃の事ですか、その抗議があったのは?」 「一か月前ぐらいです」 「それで墨東署はどうしました?」 「夏野原エリカの起用は内部で慎重に議論した結果だという回答文書を出して、動画はそのまま公開し続けていました。今回の事件があった直後、念のため動画を一旦削除すると連絡がありました」 「ネット上、SNSなどで、その件について夏野原エリカさんに誹謗中傷が書き込まれたというような事はありましたか?」 「ありました。エリカを擁護する内容が大半でしたが、そのNPOの抗議文がネット上で公開された後も、エリカの動画が残っていた事については、ひどい中傷の書き込みも少なからずあって」  山本はバッグからタブレットを取り出して起動させ、あるSNSの画面の一連の書き込みを宮下に見せた。そこには様々なとげのある言葉が並んでいた。 「エロさを売りにしてるビッチが警察に協力だ? 笑わせんな」 「こんな露出狂にPRさせたら、交通安全的には逆効果なんじゃねえ?」  宮下は冷静にそれらに目を通し、うち一つに注意を引かれた。 「全日本フェミニスト騎士団の抗議を無視して動画消さないなんて、警察も警察だ。私が騎士団に代わって、この女に正義の鉄槌を下してやる!」  宮下はこの書き込みは女性による物だと直感した。公安機動捜査隊の後輩で、情報分析担当の丹波という男に後で調査させるべく、URLを手帳に書き写す。  その時、それまで下を向いて沈黙していた夏野原エリカが涙声で叫び出した。 「どうしてよ? あたしたちがどんな悪い事をしたって言うの! 美穂さんがこんな目に遭わなきゃいけない程の、何をしたって言うのよ? あたしはただ、警察に協力して、世の中の役に立ちたかっただけなのに!」  山本があわててエリカを抱きしめ、落ち着かせようとする。宮下は立ち上がり、無言で山本にお辞儀をして、病室を去った。
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