2月(1)

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2月(1)

「今日はバレンタインなんで」 昼休み早々、早耶は早川に、小さなチョコレートの箱を手渡した。 「既婚者になったら、バレンタインのチョコレートは廃止しようと思っているので、今年が最後です!」 「ありがとう!」 早川は笑いながら受け取る。 「義理でもうれしい!」 早川の席の近くの同僚にも、チョコレートの箱を差し出す。 「あ、あと、諏訪さんにも渡したかったんですけど・・・、今日、お休みですかね。朝、フロアにいったんですけど、誰も居なくて。」 「俺もあいつに用があって、メールしたんだけど、今日は朝から直行で外回りだけど、戻ってくるっていってたから。夕方ならいるんじゃないかな。」 「あ、そうですか・・・じゃあ、帰る前に渡しに寄ろうかな。」 早耶は、最後の一つが残った袋をデスクに片づけた。 「おつかれさまです・・・」 仕事が終わった後、早耶は、帰る用意をしてチョコレートをもって諏訪のいるフロアを訪れた。居なかったら、デスクに置いて帰ろうと思っていたら、諏訪とあと一人、残っている人がいた。 早耶は諏訪のデスクに近づく。 「おや、高遠さん。おつかれさま。」 「あ、これ、バレンタインです」 チョコレートの入った紙袋を差し出す。 「いつもお世話になっているので・・・ほんの少しですけど。」 「おお!ありがとう!」 諏訪が紙袋を受けとり、中を覗き込みながらニヤリとして 「本命?」 などというので、 「本命は、今日も仕事なんで、先週末に渡してあります。」 といいながら帰ろうとすると 「俺も終わるところだから、駅まで一緒に行こうよ。チョコは残業のお供でいただくね。」 諏訪は早耶からもらったチョコレートを机の引き出しにしまい、立ち上がって椅子をしまう。 早耶は、フロアの出入り口まで移動して、諏訪を待った。 諏訪は、コートを羽織りながら早耶の方にやってくる。 「おまたせ。」 フロアをでて、二人で廊下を歩く。他の部署にも、まだ残っている人はいそうな雰囲気だった。 「わざわざごめん。ありがとうね。」 「いえ、いなかったら、おいて帰ろうと思ってたので。」 「じゃあ、タイミングよかった。」 諏訪はコートの襟を整える。ちょっとした仕草が、様になるなあ、と見上げながらそっと思う。 オフィスビルを出て、駅の方へ向かう。 冷たい風を感じて、早耶はバックからチェックのマフラーを取り出して首元に巻く。 「もうバレンタインかー。このまえ年が明けたと思ったとこだったのに・・・。」 「ほんと、早いですよね。」 早耶は相槌をうった。 「お返しのリクエスト、ある?」 と諏訪は背をかがめて、早耶に顔を近づける。 「お返し、もらえるんですか?」 早耶が笑顔で返すと、諏訪は意味ありげにニコリとしながら続けた。 「この前、楽しんでもらえてたなら、デートでもしようか。」 「この前・・・」 それが、年末の情事のことを差していることを諏訪の表情から理解した。 「・・・楽しみましたよ。」 早耶は目をそらしながら答えた。 「それはよかった。」 諏訪は腕時計に目をやる。 「忘れないうちに、お返ししようか?」 諏訪に言われて、一瞬、早耶の足が止まりそうになった。心臓が脈うつ。ぐらぐらと理性が揺らぐ。あの時のことを思い出しそうになって、すぐに頭の中の想像をかき消す。 「・・・楽しんだし、・・・満足しました。」 そして、コートのなかで左手の指輪を親指で そっ と触った。 「1回だから、楽しめたんだと思います。」 右手で顔周りのマフラーを直しながら、駅への道のりの足取りを緩めずに話す。 「2回、3回、ってなると、なんらかの感情が沸きます、多分。」 早耶は、自分にも言い聞かせるように言葉を選びながら、ふっ、と一息つく。 「そうなったら、面倒くさいでしょう。」 諏訪のほうをちらりと見上げて言う。 「・・・諏訪さんのことは、尊敬したままでいたいんです。」 早耶は、ニコリと笑顔を作ったつもりだった。うまく、笑えているだろうか。少し自信がない。 早耶の言葉を聞いて、諏訪は一瞬、少しびっくりしたような顔をして、苦笑いをした。 「・・・尊敬してくれていたとは。」 「もちろん!・・・尊敬してるから、興味があったんです。」 早耶は即答した。これは、正直な気持ちだった。諏訪でなければ、あんなふうに自分から誘うようなことはしなかっただろう。 離れ際に、そっと諏訪の左手に触れた。薬指には、指輪がある。金属の冷たい感触がした。早耶は目を閉じて、深呼吸した後、口を開いた。 「では、私、ここで。」 改札のほうに向かいながら会釈する。 「おつかれさまでした!」 「・・・おつかれ」 諏訪も手を上げて、応える。 改札に向かう。途中で振り返ると、諏訪はもういなかった。
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