図書委員

6/7

3人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
重力にひかれる。 ぐるりと視界が回って、空が広がる。 そのまま、柵は遠退いて…、  ぱしっ さっきまで柵を掴んでいた手首が、温かい力に捕まえられた。 一瞬、世界が止まったように錯覚する。 ぐん、と体は下降をやめてその力にぶら下がった。 「香住さん!」 鼓膜が震える。 来てくれた。 「鈴木さん…!」 どうなってんだよもう! 彼女を見つけて声を掛けようとしたその瞬間、彼女が視界から消えた。 混乱。 そこで折れた柵に気がついて、慌てて香住さんの手首を掴んだ。 「香住さん!」 彼女の腕にはすずが縮こまっている。 とりあえず二人とも無事だ。 「鈴木さん…!」 手首を両手で掴み直す。 が、運動部ですらないのに、一人の人間を両手の力だけで支えるのはかなりキツい。 早く誰か呼ばないと。 汗が滲む。 「な、ぁお」 「すずちゃん!?」 すずが香住さんと僕の手を伝い、テラスに上って廊下に消えた。 あとは香住さんを引き上げるだけだ、が。 腕の筋肉が悲鳴をあげている。 「あぁあ、唸れ俺の筋肉…!」 離すものか。 「…鈴木さん」 木の葉が擦れ合うような静かな声。 聞くたび幸せになれる声。 それが今、いいようのない不安をはらんでいた。 「離していいですよ」 「よくない」 「いいですよ」 いい訳あるか。 香住さんがなんと言おうと離すつもりはない。 「すずちゃんは助かりました。犠牲は私一人のほうが、目的に対して低コストです」 自分を対価に数えていることが無性に腹立たしい。 「どうせ、明日終わるつもりだったし…」 明日、終わる? ふと、香住さんの言葉が思い出される。 『明日。世界を終わらせるんです』 その真意に思い至って彼女を見れば、今にも空気に消えてしまいそうな儚いのに美しい笑顔。 「世界から逃げようと思ってました」 僕にはそれが、死のうと思っていた、とそうハッキリ聞こえた。 「どうしても適応できないんです。飛び降りは候補になかったんですけど…」 「香住さんってさ」 彼女の言葉を遮る。 腕はみちみちと音を立てている。 「目がすごく綺麗だと思う。碧くて」 「鈴木さん?」 「理科得意だよね。あと英語。食べ物はしいたけが好きなんだっけ」 香住さんが不思議そうに僕を見ている。 全部正しいはずだ。 『香住さんらしくて、いいと思うよ』 そう彼女に言ったのは2年前だ。 そして、彼女の好きなものがやけに記憶に残るようになったのもその頃から。 「麦わら帽子、稲でできてるって前まで思ってたんでしょ」 「な、なんでそれを」 「鮭は好きだけどサーモンは苦手ですって言ったことあるだろ」 彼女の耳が赤くなる。 こんな時までそれが愛しくて堪らない。 2年前、僕の言葉に嬉しそうにはにかんだ笑顔を思い出す。 腕が千切れそうだ。 汗が全身にじっとりと絡んでいる。 手に力を込め、彼女の碧い目をまっすぐに見た。 「君が世界を終わらせたくても、僕は終わらせて欲しくない」 香住さんが目を見開いた。 やわらかな陽光を反射して、碧がよく見える。 綺麗だと思った。 「香住さんの綺麗な碧にうつる世界を、僕はまだもっと知りたい」 世界は静寂に包まれた。 でも、腕の感覚はなくなってきている。 だんだん込める力が弱まっていく。 汗で滑りそうになって、慌てて掴み直した。 「鈴木さん、もういいです。それを聞けて私は幸せですから」 「だから、良くないって…」 がくん。 柵が根本からもげた。 「あ…!」 僕の体ごと、柵の外側へ大きな力で引っ張られ、 「鈴木!!」 僕の体を数人が掴んだ。 「鈴木くん、しっかり!」 「ひきあげるぞ!」 「お客様、大丈夫ですか!?」 橋本夫妻に、スタッフの藤井さん。 それに、僕の名前を呼んだのは。 「香住ちゃんと心中とか、ふざけんじゃないわよ!」 「水澤?」 涙目で、三人と一緒に僕を引き上げた水澤。 全身から力がぬけ、へたり込む。 僕に続いて、香住さんも引き上げられた。 よかった。 安堵して、腕の痛みが主張を激しくした。 「いっつ」 「…あたし、これ渡そうと思って来たのよ」 水澤は、猫のペンを胸元のポケットから出した。 香住さんのだ。 「そしたらさ、そこのすずって猫が狂ったみたいに鳴いてるじゃん。そこの橋本っておじさんとおばさんとテラスまで来てみれば、なんか大変なことになってたし」 「あ、み、水澤さん、」 気づいた香住さんが立ち上がって水澤の近くまで駆け寄る。 すると、水澤は乱暴にペンを香住さんに押し付けて、僕に背を向けた。 ふいに足を止めて、水澤が向こうを向いたままぼそっと言う。 「…何なんだろうね、ホント。こんなのに熱あげてるあたしが馬鹿みたい」 それだけ言い残すと、水澤は足早に去っていった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加