怒りも残さない

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「知らなかった。認知症って、忘れっぽくなるだけじゃないのね」  母は老人ホームから帰ってくるなり、盛大に溜め息を吐き出した。  リビングで課題を広げていたわたしにとってはあまり興味の持てる話題ではなかったので、生返事をしてしまう。しかし母にとってその対応は不満だったようだ。 「聞いてちょうだい。お父さんね、認知症が進んだせいで怒りっぽくなっちゃってるんだって。施設の職員さんたちはすごいなって思っちゃったわ。聞けば聞くほど、家で介護なんて絶対にできない」  お弁当屋さんで買ってきたらしい弁当をテーブルに広げながら、立て板に水。  そういえば今日はパートを休んで祖父の面会に行くと言っていた。  祖父。母の、父。  わたしにとっては、外孫なので年に1、2回しか会ったことのない、会えばお小遣いをくれる存在。想い出らしい想い出は、ない。 「食事の途中で、自分が食べていることを忘れちゃって『どうして食べかけなんか出すんだ!』とか。財布なんてもう持ってないのに、『儂の金を盗んだだろう』なんてのもしょっちゅうらしいの。呆れちゃうわ〜」 「え、でも、お母さんには怒らなかったんでしょ?」 「怒るも怒らないも、寝ちゃってて、顔しか見られなかったのよ。だいぶ痩せちゃって別人だったけれど。それにしても怒ってばっかりなんてきっと職員さんたちも心のなかでは嫌がってるわよね〜。切なくなっちゃう」  テーブルに置かれた筈のお弁当はいつの間にか温められて電子レンジから出てきた。  父は出張でいないので、今日の晩ご飯はわたしと母だけだ。買ってきたお弁当は母の作らないおかずが入っているし味付けも濃いので、密かに好きだったりする。母の機嫌を損ねるから決して言わないけれど。 「たしかに、ザ・昭和の頑固オヤジだったけれど。長い長い人生の最後に、『怒り』が残っちゃうなんて悲しいわよね」 「『怒り』……」  割り箸に力を込めながら考えた。  父親とか、担任とか部活の顧問とか、クラスのカースト上位にいる女子とか。  数学の課題とか、なかなか上手くならないテニスのサーブとか。  雨の日の髪のうねり具合とか、よく荒れる唇とか。  いらいらすることは毎日ある。大なり小なり。  でもそれだけになっちゃったら?  それだけになっちゃうのは、寂しい。  人間は、怒りだけでできている生き物じゃ、ない。 * * *  白くて軽くて、脆そうだなと思った。  黒い壁で囲まれた近未来的な空間に集まったわたしたちの前に、まだ熱を帯びている棺桶がゆっくりと現れた。  一時間前、その中にはたしかに祖父が永遠の眠りについていた筈だった。白い布の下は、見なかったけれど。たくさんの切り花を添えて、この火葬場に到着したのは確かだった、  部屋の奥に収められ火葬された祖父は、見事、骨だけになってしまった。  正直なところ、わたしはあまり祖父のことが好きじゃなかったから、よかった。よかったと、思った。  だって。  内孫であるいとこや、父や母、その他親戚の間はしんみりとした空気が流れている。  それでも。  怒りも悲しみも、喜びも残さず。  人間が死ぬというのは、こんなに呆気ないことなのか、と実感が徐々に湧いてくる。  何故だか指先がじんわりと痺れていた。 「順番をお伝えしますので、右と左で二人一組になってこの骨壷にお納めください」  火葬場の職員さんが案内してくれる。渡してくれた箸で、指定された骨をつまんで骨壷に。  箸は竹製と木製で一膳。  この世とあの世の間にある三途の川を無事に渡れるよう、『橋』渡しするという意味がある。と、マニュアルを読んでいるかのように説明してくれた後、何故だかぱっと顔を輝かせた。 「喉仏がきれいに残りましたね。すばらしいです。仏さまがお座りになって合掌しているように見えるでしょう?」  骨だけになっても褒められることって、あるんだな。  生まれて初めてのお葬式にひどく緊張していたわたしは、ようやく胸を撫でおろすことができた。 「よかったじゃん、おじいちゃん」
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