コーヒーが冷めるまでほんの10分

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 帰り道、電車の中はいつも通りの静けさに満ちていた。  学生の聴く音楽のイヤフォンからの音漏れはなかったし、第一みんな真っ白い不織布のマスクをしていて、万が一間違って咳が出てしまわないように少し緊張して見えた。  ――わたしは。  夕闇に沈み行く江戸川を見ていた。闇の底に沈んでいくように墨色に染まっている。電車はその上をガタンガタンと毎日几帳面に音を立てて走り過ぎる。――ああ、河を越えればもう千葉だ。肩の力がふっと抜ける。東京に通ってたって所詮、千葉県民なんだ。都民にはならない。  今日は講義の後、助手の先生とたまたま話し込んでしまいこんな時間になってしまった。年齢(とし)がほど近いその助手の先生はいつもわたしを緊張させない。  コロナワクチンの大規模接種会場にうちの大学のロビーから食堂までが選ばれた。接種が始まってからランチをどうしたものだろうかと、話しても仕方の無いことを話題にしていた。そうなれば空き教室が使えるようになるのは目に見えているのだけど、こんなご時世、ちょっとした話題が楽しい。お喋りがうれしい。大袈裟なくらい「困ったねぇ」、「困りましたねぇ」を繰り返してきた。  そして遅くなった分、駅から家までの自転車で二十分の田舎道を、暗い中どうしたものかと途方に暮れていた。  終電には十分早い時間でも、田舎の夜は更けるのが早い。疎らな街灯の下、自転車道なんて洒落たものがない道を冗談抜きに必死こいて走らなければならない。マスクの下の息も切れる。  ひょっとすると車道側によろめいて轢かれることもあるかもしれない。自転車はそんな時、頼りない。  ブルっと手にしていたスマホが振動してLINEが入る。 『明日香、駅前のいつものところに薫くんが迎えに行ってくれるって』  母からだ。  なんで薫が。  わたしの帰りが遅くなったことを知る術はないはずなのに。  気がつくとLINEの画面の字面を食いつくようにじっと見ていた。はっとなって、なんとなくひとりで恥ずかしくなる。  薫が。  薫はうちの二件先に住む同い年の幼なじみってやつだ。小中高と腐れ縁、と言うのだろうか。男女だということを意識する前からずっと近くにいて当たり前ってやつだ。  単調な揺れは眠りを誘う。夜の電車で寝るのは無防備だと言ったのは薫だ。世の中には本当に痴漢がいるんだぞ、と、まるで兄のように強く諭された。  はいそうですね、その通りです。でも朝五時半起きの体にはこの揺れは魅惑的すぎて。ほら、甘い誘いが。  いいえ、寝ません。  薫はいちいちうるさい。流行りの薄手のスカートを履いた時だって「痴漢に遭いたいのか」なんてバカなのか。痴漢はいつでもわたしだけを狙っているわけじゃあるまいし。  思えば合格記念に防犯ブザーを買ってきた時からおかしかったんだ。あの時はなんとも思わず「ありがとう」ってもらっちゃったけど。  電車はガタゴトとまるですべて他人事のように一直線に線路を走る。窓の外の風景が流れるように切り替わる。一秒ごとに家までの距離が近づく。  あの、駅前の、車一台がやっと停められるスペース。他の車との兼ね合いもなく停められるので人気がある。そこに薫は絶対いつもいる。無難な黒の軽。きちんと掃除されてる。他の車に場所を取られてしまったなんて、そんな失態は決してない。  車の前を通る時、なんとなく気が引ける。一体いつから······。  なので素直になんてなれなくて「ご苦労」とか、ちっとも労ってない感謝の欠けらも無い言葉を使ってしまう。それでも薫は「おかえり」って、マスク越しの横顔がちらっとこちらを一瞥して、それ以上でもそれ以下でもなく車を走らせる。  薫の手が流れるようにシフトレバーをドライブに動かす時、なぜか胸がすんとなる。自転車で二十分の道のりも、車なら信号に引っかかったとしても十分足らずだ。  音楽は流れてない。子供の頃から趣味が合わなかった。そのうち薫は洋楽しか聴かなくなってしまった。わたしはYouTubeで流行りの曲をちらほら聴くくらいだ。  ああ、あと二駅――。 「ご苦労」 「おう、おかえり」  荷物を手早く車内に入れて助手席のドアを閉める。シートベルトのカチリという音が合図のように、薫の手がハンドルからシフトレバーに移る。  すん、となる。  でもそんなことは関係なく車はスムーズに発進する。砂利を踏んだ時のようなジリジリとタイヤが音を立てて。  音楽は、やはりない。ラジオもない。  なにか喋るべき話題も見つからない。  このシートに座ると言葉は頭の中から吸引されて出てこなくなる。  沈黙はいつもわたしには重い。 「ちょっと寄っていいか?」 「もちろん」  そうか、買い物のついでだったのかもしれない。なんだ、それなら気も楽になる。車は夜の市街地を走って最寄りのコンビニに着いた。闇を切り裂くように看板が鮮やかに発光する。 「喉乾いた。明日香、何飲む?」 「わたし?」 「飲むだろう? コーヒー? ホット?」  ホットのコーヒーじゃ熱くてうちに着くまでに口が付けられないよ、と思う。でもそうやって聞いてくるということは薫も同じようなものを飲むつもりなんだろう。ホットのカフェオレを頼んだ。  コンビニの駐車場はほどほどに混んでいて、車の中で休憩しているドライバーの姿が窓越しにぼんやり見えた。コーヒーを飲んだり、パンを食べたり。シートを倒してすっかりくつろいでいる人も見える。中にはまだマスク姿の人も。  みんなこれから帰宅するのだろうか? それとも仕事の途中? こんな時だから帰宅途中の可能性が高いかもしれない。 「お待たせ。カフェオレ、熱いぞ」 「ありがとう」  手に熱いペットボトルを軽く振って、キャップに手をかける。横からすっと手が伸びてきてボトルがキリキリと開けられる。  ほら、とばかりに渡される。親切だ。今までなかったケースだ。女の子扱いされたみたいでこそばゆい。  薫のマスクが外される。高校を卒業して素顔を見たのは久しぶりな気がする。  車の中は、まだふたりとも口の付けられないコーヒーの香りでいっぱいだった。薫も少しだけ口を付けて黙っていた。 「うちに帰ってからコーヒー淹れた方がよかったんじゃない?」 「なんで?」 「熱くてすぐに飲めないじゃない」 「……」  それには返答はなかった。  一体いつからこんなに喋らなくなったんだろう? ついこの前まではくだらない話で盛り上がることもしばしばあったのに。ネットの話題とか、学校が違っちゃった友だちの話とか。  わたしと薫は偶然、同じ高校に進んだ。友だちもみんな一緒とはもちろんいかなかった。そんな友だちの近況を聞く度、情報交換をした。さみしかったけど、わたしにはいつでも薫がいたのでひとりじゃなかった。 「あのさ」 「うん?」 「せっかく車出してるんだからさ」 「いいのに。無理してくれなくていいのに」 「無理はしてない。これは俺の自由意志だ。お前の家の自転車置き場に自転車がなかったから迎えに来ただけだ。――危ないだろう? 若い女が舗道のない車道走ったり、薄暗い農道走ったり。自転車ごと押し倒されることもあるんだぞ」 「それは仕方ない。都内の大学に行くって決めてから覚悟してたし。それに……あまり遅くならないように気をつけてるよ」  最後の方はずいぶんぶっきらぼうになってしまった。今日は急を要さないのに遅れたからだ。EV車の静かなエンジン音が耳に届く。 「そんなことで喧嘩したいわけじゃないんだよ。たださ、ほら、本当なら帰りにふたりでどこかでお茶したり夕飯食ったりできたのにって。コロナのお陰で営業時間、どこも短縮だろう? ファミレスもやってない。今日は悪かった、引き留めて。たまにはふたりでコーヒーくらい飲んでもいいんじゃないかって思ったんだ。要するにお前とお茶したかったってこと」  そう言うと薫はペットボトルのキャップをきつく閉めてドリンクホルダーに放り込み、運転席のシートベルトを思い切り引っ張った。  びっくりして声がすぐに出なかった。そんな、まるで。 「待って! ごめん、茶化しちゃって。そうだよたまにはゆっくり……ふたりでコーヒーくらい」 「そう思う?」  声には出さずに頷いた。  はっ! なんだか展開がラブな方向に傾いてきている。シーソーがゆっくり沈む時みたいに。わたしが沈んで薫が上がっていく。ここでわたしがさっと逃げたら、薫はどすんと落っこちる。 「そっか、それならよかった」  わたしは彼を落とすようなことは絶対にできない気がした。このふたりきりの特別な空間で、ほんのちょっと特別な時間を過ごしてもいいと感じた。 「コロナ、落ち着いたらさ、どこか行かない?」 「ふたりで?」 「そう。せっかくがんばって免許取って車も買ったのに。なのに神様は俺の願い事ひとつ叶えてくれないんだからさぁ」 「願い事?」 「……そう。夏休みに免許取って、お前とドライブに行くつもりだった。他のやつは教習所でも飛ばしたがったり、急停止で決めてみたがったりしてたけど俺は乗せるのはお前だから、できるだけ教官の言う通り、タクシードライバーのような運転を目指してんだけど」 「……知らなかった」  言われてみると薫の運転は滑らかで、カーブやブレーキで体を持って行かれるようなことはなかった。常に静かでジェントルだった。 「まぁ、だからってわけじゃないけど今日みたいにたまには、コーヒー一本分くらいは付き合えよ」 「うん、わかった」 「それでもしも嫌じゃなかったら――。俺、怖い。お前が彼氏できて車には乗れないって言われるの。俺はさ、お前しか乗せないから」  頬が上気する。熱いコーヒーのせいかもしれない。なんだかむずむずする。 「うん、わかった」 「本当に?」 「わかったよ、勘違いでなければ」 「勘違いってなんだよ」 「だから『すき』って言ってくれればいいのに。たった二文字なのに。断る理由なんてわざわざ東京の大学まで通っててもいまのところ、ない。だってみんなマスクで不必要に喋ったりしないし。出会いなんてどこにもないよ」  あー、言っちゃった。  世界が瓦解していく。 『すき』ってなんだよ。たった二文字なのに、なんてすごい威力なんだよ。わたしたちの関係、いま、一瞬で組み変わったぞ。小さい頃散々遊んだレゴなら、すごい時間かかると思う。 「『すき』っていうか――明日香が俺のこと『すき』ならいいなぁってずっと思ってた」 「ずっと? ずっとってなに? どれくらい?」  薫はわたしの顔を見なかった。目を伏せて下を向いた。 「高校入った頃には。なんだかそれまでと違って特別に見えたんだよ」  特別、か。悪い言葉じゃない。気分が良くなる類の言葉だ。 「他のやつみたいに彼氏できたりするのかなぁと思ってたら、まさか東京まで行っちゃうなんてさ」 「仕方ないじゃない。希望する進路に進むためなんだから。わたしだって薫が手近な県内で済ませるなんて思わなかったもん。進路は曲げたくないから」 「それは了解。俺は全面的にバックアップ。だから弱音を吐かずに卒業まで安心して通いなさい」  なんだかおかしな話になってきた。心配性のお父さんみたいになってきた。わたしだって辞めるつもりはさらさらない。 「それで、今後なんだけども」 「今後!?」 「遅くなる時にはLINEしてきなさい」  それは本当に必要なのかしら? わたしひとりでだって大丈夫なことも多いのでは? 「返事は?」 「……はい。えー、なんか狡い。わたしだけ縛られてるみたい」 「そんなことはないよ。言ってるじゃん、俺は一途だからさ。俺だってお前のLINEに縛られて家でじっと待つわけなんだから。さて、コーヒーが冷えるまでに大切な話が終わってよかった!」 「今日はそのつもりだったの?」 「バカなこと言うなよ。今までだってずっと機会を狙ってたんだよ。ただ急発進できなかっただけ。勢いつけるの下手なんだ」  行くぞ、と車はスローリーに動き始めた。思わずわたしもバックモニターをじっと見つめる。わたしの手にあるペットボトルにはまだコーヒーが残っていたけれどそんなことはどうでもいいんだ。なにせ、コーヒーなんて話のだしなんだから。  コンビニの駐車場から出る時、ウインカーをチカチカ出しながら一瞬、真面目な顔を見せる。怯えているような、大人のような顔。事故を恐れる人の目だ。わたしは薫のそんなところがすきなのかもしれない。  浮いた話なんてひとつもなく、どの男の子も目に入らない理由はここにあったのか。決してノリが悪かったわけじゃなかったんだとそんなことを考えて、少しおかしくなる。  東京に行ったら素敵な彼氏ができるに違いないと思ったのは実はわたしもなんだ。  それは叶った。思わぬ形で。 「最初に行くのはどこにするのか、考えておけよ」  EV車のエンジン音が静かに車内を満たしていた。そこには音楽もお喋りもなかったけれど、心地よい暖かな空気が漂っていた。いつもより、〇.五度くらい車内の温度は上昇していたかもしれない。もしかしたら、だけど。 (了)
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