59人が本棚に入れています
本棚に追加
/28ページ
おとうさんは、ここから電車で三駅目の住宅街で一人暮らしをしている。
電車に乗るのは怖い。わたしが乗って、いやな思いをするひとがいたらどうしよう。万が一絡まれたり、怖い目に遭ったらどうしよう。
帽子は目深に被って、指の第一関節まできちんと隠れる服を着て、深呼吸をして、えいっと乗る。電車は、おとうさんの顏をこっそり見に行くときしか乗らない。
二駅目を越えると、ようやく心臓が落ち着いてくる。
車窓から見える、もくもくした入道雲。
おとうさんとおかあさんがお別れする、ちょっと前。家族で最後に行った遊園地で、おとうさんはあの雲みたいに真っ白なソフトクリームを買ってくれた。
おとうさんは、おかあさんがエイリアンだからお別れするんじゃない。だいじなことを話してくれなかったから。それがかなしくてお別れするんだ。そういってた。
だから、わたしのこともきっと、かわいくないとかではない。だって、記憶のなかのおとうさんは、いつもやさしかったから。
きょうは、思いきって話しかけてみよう。そう心に決めて、やってきた。
おとうさんに話したいこと、たくさんある。漫画のこと。学校のこと。五十嵐くんにいわれたこと。市ヶ谷くんの、こと。
おかあさんのことはまだききたくないかもしれないから、きょうはやめておいて――。
頭のなかでシミュレーションしながら、心臓がばくばくしてくる。
だいじょうぶ。だってわたし、おとうさんの子どもだもの。
駅に着いて、おとうさんの住んでいるアパートへ向かう。
アパートに着いておとうさんの部屋を見上げると、ちょうど部屋のとびらがあいた。
ためらっていると、声をかけられなくなりそう。
息を吸いこむ。おとうさん。よびかけようとして、口が、お、のかたちのまま、とまった。
おとうさんに続いて、だれかが出てくる。きれいな女の人。その足元に、かわいい女の子が絡みついている。人間の、女の子。
おとうさんと女の人は笑いあいながら歩いてきて、しぜんと女の子をあいだにはさむ。三人は、あたりまえのように手をつないだ。
――恥ずかしいから。
おとうさんと、最後に遊園地に行った日。
わたしがのばした手を、おとうさんはとらなかった。
恥ずかしいから。そういって、ほんとうに照れくさいかのように、まゆじりを下げて笑った。
さみしかったけど、わたしはおとうさんの照れたように笑う顏がすきだったから。その顔をわたしがさせているんだと思ったら、誇らしくさえあった。恥ずかしいの、ほんとうの意味も知らずに。
おとうさん。その子とは手をつなげるんだね。その子と手をつなぐのは、恥ずかしくないんだね。
よかったね。おとうさん。
きょうは遊園地に行くぞー。やったー。迷子にならないようにね。おとうさんと手をつないでるからだいじょうぶだもんなー。
みっつのしあわせそうな声が、蝉と輪唱する。
耳にこびりついて、帰りの電車のなかでもはなれなかった。
最初のコメントを投稿しよう!