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「朔くん、おはよー」
「市ヶ谷ー、おまえきょう寝ぐせすげえぞ」
「あー、まじ? きょう弟がぜんぜん起きなくてよー」
あくびをかます市ヶ谷くんのまわりには、あっというまにひとだかり。すぐに、本人そのものはみえなくなる。
いっしゅんの観測。ささ、と、ノートにシャープペンを走らせる。おでこ、鼻筋、小鼻、人中、唇。
市ヶ谷くん、やっぱり夏、似合うな。ひまわりみたい。
友だちと笑いあう市ヶ谷くんの横顔。輪郭だけとらえて、あとは想像で描く。もう何度も描いているから、見なくても描けるようになってしまった。
ノートは垂直に、少しだけとじて。壁に背をつけて、ぜったいにだれにも見られないように。もしだれかに見られたりしたら、たいへん。
はらり、前髪が目にかかる。絵を描いていると、どうしても落ちてきてしまう。
続きはお昼休みに描こう。
お昼休みになると、お弁当を持って教室を出た。
普段、教室を出ることはあまりない。どうしても視線を浴びてしまうし、わたしを心底怖がっているひとも、なかにはいる。
絵を描くことに集中できるのは、お昼休みだけ。もちろん教室ではなく、ひとけのないところ。ようやくみつけた場所は、体育倉庫の裏だった。
体育倉庫からひとの気配がしないことを確認して、裏にまわる。たまに運動部の生徒が片づけかなにかをしているときがあって、そういうときは断念する。
体育倉庫の裏は日陰になっている。とはいえ、夏はかなり暑い。エイリアンは汗をかけない。体のなかに熱がこもる。指を隠すために制服も長袖だから、よけいに。あまり長い時間はいられない。
そそくさ、ノートをひらく。筆入れに入れてあるヘアピンを一本つまんで、前髪をななめにとめる。ひさしぶりのパノラマの視界。シャープペンをにぎって、朝の続きを描いていく。
絵を描いているときだけは、心が凪ぐ。シャープペンの走る音。近くの木から、蝉の声。
しゃ、しゃ。みーんみんみんみんみん。
ふたつの音にかき消されて、足音にまったく気づけなかった。
「え、うま」
その声に、息がとまる。おおげさじゃなく、ほんとにとまる。
声のしたほうを見る。
そこには、市ヶ谷くんが立っていた。
手にはソーダ色のアイス。咀嚼しながら、わたしの手元を見ている。
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