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エピローグ
地球が夏を葬ろうとしている。体育倉庫の裏へ向かう道すがらで、蝉がおなかを出して天寿を全うしていた。
いつものコンクリートに腰をおろして、ノートをひらく。シャープペンと、ヘアピン。ヘアピンで、前髪をぎゅっととめた。
「前髪は切らないんだな」
夢中で描いていた手がとまる。
市ヶ谷くんがちょうど、わたしのとなりに腰をおろしたところだった。
「やっぱり、市ヶ谷くんみたいなひとばかりじゃないから」
笑って、そうこたえる。
いつだったか、おなじ言葉を市ヶ谷くんに返したことがある。あれは、初めて市ヶ谷くんとここで会った日。
だけど、あのときとは少しちがう。おなじ言葉なのに、すとんとまっすぐ、おなかに落ちる。
「自分とちがうものを怖いと思う気持ちも、受け入れる気持ちも。どっちもあって、いいと思う。ひとの感情に、正解なんてないから」
絵を描くのを再開しながら、いう。
おとうさんがくれたシャープペンをにぎる、人間とちがうかたちの手。おとうさんがつなげなかった手。市ヶ谷くんが、ふれてくれた手。
「だから、おとうさんがわたしに手を差し伸べられなかった気持ちも、否定しないであげたい。かなしいし、さみしいけど。それも、おとうさんのたいせつな一部だから」
だけど。続けて、市ヶ谷くんを見る。
市ヶ谷くんは、目を細めてわたしをみまもってくれていた。
「この目を見ながら笑いかけてくれるひとの前では、もっと堂々としていようって。目も、手も、耳も、心も。包み隠さないで、少しずつでいいからみせてみようって。いまはそう思ってるの」
おかあさんは、あれから謝らなくなった。だけど、きっとまだ、心のどこかでわたしをかわいそうだと思っている。
それでもいい。それも、おかあさんの愛情の一部だから。いつか、おかあさんがそんなこと、気にならなくなるくらい。わたしはわたしを、たのしく生きたい。
「市ヶ谷くんのおかげ。ほんとうに、ありがとう」
そういうと、市ヶ谷くんはきょとんとしたあとで、まゆをハの字にして笑った。
「おれはべつになにもしてねえよ。思ったことそのまんまいっただけ」
「だからうれしいんだよ。ありがとう」
市ヶ谷くんは、お礼をいわれるのが少し苦手みたいだ。口がへの字にまがって、頬がじわじわ赤くなっていく。
ところで。市ヶ谷くんは、ごまかすように咳払いをして、わたしのノートを指さした。
「ほんと、いつ読めんの? 山田さんの漫画」
「あ、いや。そうだよね。ええっと」
「っていうか、どういうはなし描いてんの?」
「あ、これは、その」ノートをぱらぱらめくる。「恋愛漫画、かな」
れんあい。市ヶ谷くんは、覚えたての言葉を復唱するように、ざらざらと舌を動かした。
「れんあいかあ。おれのいちばん苦手な分野だ」
「苦手、なの?」
「ああ。さっぱりわからん」
その言葉どおり、もうお手上げって感じで、市ヶ谷くんは空を見上げる。あ、あの雲いわしみてえ。そうつぶやく。
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