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 お昼休みなのに、下描きがまったくはかどらない。ヒーローの輪郭と、吹き出しをちょろちょろっと描いただけ。  ノートと筆入れ。いつもの持ちものに追加して、手鏡。昔、おかあさんが社員旅行のおみやげで買ってきてくれた。  自分の顏を手鏡で見るなんて、いままで必要なかったから。ずっとクローゼットにしまわれていた。  朝、ワックスをつけてきたところが固まっちゃってる。手鏡を膝に置いて、髪の毛を急いでほぐした。  ぜんぶの神経が、昨日、市ヶ谷くんが来た方向へ向く。  だけど、視界でなにかが動いても、すぐに見たりはしない。じゅうぶんに、じゅうぶんに時間をおいてから、なにかのついで、ふうを装って、視線をあげる。  けっきょく、ほとんどが金網越しの通行人。ため息をついたのも、もう四、五度目である。  まいにち来るなんて、いってなかったし。っていうか、またな、っていわれただけで、ここでまたな、って意味じゃなかったかもしれない。市ヶ谷くんみたいな人気者が、まいにちわたしになんて、会いに来るはずがない。  考えがどんどん卑屈になって、あわてて首をふる。わたしのもの憂いに、市ヶ谷くんを巻きこんじゃいけない。  今朝のおかあさんとのやりとりを思い出して、ますます気分が重くなる。  きょう、あんまり早く帰りたくない。おかあさん、早番だから帰りも早いだろうし。図書室に寄って、少し遅く帰ってしまおうか。  まったく変化のないノート。膝に顔をうずめる。  夏の強い陽射しが、じりじりと首のうしろをいじめてきて、痛い。 「山田さんっ」  とつぜん名前をさけばれて、はじかれたように頭をあげる。  市ヶ谷くんが、あわてて駆け寄ってきた。 「い、市ヶ谷くん」 「どうした? 具合わるい?」 「へ? ……あ」  そうか。こんな炎天下のなかうなだれていたら、そりゃあそうなるか。 「あ、ええ、と。そう! 漫画! 漫画が、ぜんぜんはかどらなくて」  そういうと、市ヶ谷くんは安堵したようにうなだれた。そのままわたしのとなりにくずおれる。 「おどかすなよ」 「ご、ごめんなさい」 「あー、あせった」  うしろでに手をついて、右手でぱたぱた首筋を扇ぐ。  こめかみとえりあしに、玉のような汗。
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