#1 テナーサックス

3/29
前へ
/324ページ
次へ
 気づけば私は、その人を追ってカフェを飛び出していた。もちろん会計は済ませて。  ドアを開ければ、昔懐かしい鈴の開閉音が夜の空虚な空間に響く。  町行く人の中に、その人を探した。  夜の闇に紛れるような黒いフードの人物が、細い路地へと消えていくのを視界の端に捉えた。  できるだけ早足で追いかける。心臓が早く脈打って、その人と接近していることを知らせる。  人通りのない路地、何やら黒いケースを背負ったその人の背中を見るや、ドクン、と心臓が跳ねた。 「あのっ!」  私の声に、黒いフードの人物は足を止めた。少しずつ近づいて、顔の見える距離で立ち止まる。 「さっきの、素敵な演奏でした。それを伝えたくて……」  言葉が詰まる。ただそれだけを伝えたかっただけだったから。何も答えない黒いフードの人物と私の間に、気まずい空気が淀む。
/324ページ

最初のコメントを投稿しよう!

73人が本棚に入れています
本棚に追加