白衣の戦士 救急救命士と研修医 2

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白衣の戦士 救急救命士と研修医 2

ふと窓の外に目を移すと、足早に駆けだす若者の姿が目に映った。 院内を忙しなく移動する桐生は、とある方向に目が止まり微笑みを浮かべた。 そこには病院の出入り口で一人佇み空を見上げる東雲葵の姿があった。 どうやら傘が無いらしい。途方に暮れた顔をしている彼女はどこか寂しげで。 桐生は、時折見せる葵の憂いを帯びた表情が気になっていた。 夫婦関係のことで悩んでいるのだろうか。偶然耳にしてしまったとはいえ、踏み入ることはできない領域なのだ。 葵を元気づけようと悪戯心を抱いた桐生は、背後から彼女を驚かしてやろうとそっと近づいたがその足を止めた。 よく見るとそこには、同じく業務を終えた救命士の谷崎がいた。 谷崎は葵に傘を広げ声を掛けているところだった。 葵が首を横に振っている様子から、谷崎の申し出を断っているようにも見えた。 なぜか、ホッとする桐生。 だが、押しの強い谷崎は葵に傘を差し出し、雨の中を傘もささずに走り去っていった。 その谷崎の後を追いかける葵。 そんな場面を目撃してしまった桐生は、二人のことが気になって仕方がない。 病院を出たところから二人の様子を見守った。 暫く行ったところで谷崎が足を止め、今度は追いついた葵が雨に濡れる谷崎に傘をさしてあげていた。 すると、二人は一つの傘に収まり肩を並べて帰っていったではないか。 桐生は、ドラマのようなそのシーンに胸のざわつきを覚えた。 ――あいつ確か、救命士の谷崎といったな。下心丸出しじゃねーか。それにしても、君はどうしてそんなにも隙だらけなんだ?ちょっと無防備すぎやしないか?君はもっと男に対して警戒心を持った方がいい。男なんか下心しかないというのに。これを彼女の旦那が見たらどう思うのだろうか。嫉妬するだろうか。それとも・・・・・・ 桐生は複雑な感情に苛立ちを隠せなかった。 「あれ?今日雨降るって言ってたっけ?」 葵は病院の出入り口で佇み、降りしきる雨を見上げて独りごちた。 「あ、東雲さん!お疲れさまです!ひょっとして、傘が無いのですか?よかったら一緒に帰りませんか?」 葵に微笑みながら傘を広げる谷崎。 男の人に傘を差しだされて一瞬ドキリとする葵。 「あっ、でも・・・・・・私でしたら大丈夫です。お気遣いありがとうございます」 ーーこんなところを誰かに見られ、変な噂でも立てられでもしたら困る・・・・・・ 葵は彼の好意を気持ちだけ受け取りやんわりと断った。 「でも、この雨の中どうやって帰るつもりですか?」 「・・・・・・そうですね、少し走れば商店街に出ますから、そこまで走ります」 「・・・・・・でしたら、これを・・・・・・」 葵の心境を察した谷崎は、葵の手を取り傘を握らせるとその場から走り出した。 「え?あ、谷崎さん?ちょっと・・・・・・待ってください!」 葵は谷崎の後を追いかけた。 追いかけてくる葵に気づいた谷崎は足を止め振り返る。 葵は、困惑顔で谷崎に傘をさしてあげた。 「これでは谷崎さんが濡れてしまいます。では・・・・・・お言葉に甘えて駅までご一緒してもいいですか?」 葵の言葉に谷崎は顔を綻ばせた。 葵より少し背の高い谷崎の傘におさまる葵。 ひとつ傘の下という限られた空間に肩を寄せ合い駅に向かって歩く二人は、傍からしたら親密なカップルといったところだろうか。 ――夫以外の男性にエスコートされて相合傘なんていつぶりだろか・・・・・・ 葵は想定外のシチュエーションに気恥ずかしさを覚えた。 ちらりと谷崎を一瞥する葵。 谷崎は葵の歩く速度に合わせ、彼女が濡れてしまわないように傘を斜めにしてくれている。 谷崎は優しいのだと思った。 ふと見ると、谷崎の肩が雨の雫で濡れていることに気づいた。 葵は傘が真っすぐになるように傘の中棒を押した。 「それでは東雲さんが濡れてしまう」 「では、もう少しこちらに・・・・・・」 そう言って葵は、谷崎の服の袖をつまみ自身の方へ引き寄せた。 葵の何気ない行動に、谷崎の心臓が跳ね上がった。 二人の肩が触れ合うくらい距離が近い。 先程から何度もちらり、ちらりと葵に視線を送る谷崎の心臓がうるさいくらい騒ぎ立った。 谷崎は、好意を寄せる葵とこうして相合傘となれるまたとないチャンスに恵まれ神に感謝した。できれば、このままずっとこうしていたいと願った。 翌朝早くから、桐生は用もないのに救急外来を訪れた。 朝から葵にくっついてまわる谷崎が目障りだ。 「あ、桐生先生、おはようございます」 葵の爽やかな笑顔に癒される桐生。 「おはよう東雲さん。今日は天気がいいね。さすがに傘はいらないだろう」 桐生は谷崎に牽制の意を込め、彼に冷たい視線を送った。 「?はい、そうですね・・・・・・」 「では、またな」 桐生は葵に微笑み救急外来を去っていった。 「桐生先生、何の用だったんだろう?」 「桐生先生、今日は機嫌が悪いんですかね。今、凄い怖い顔で睨まれました」 「そうですか?」 桐生の後ろ姿に小首を傾げる葵だった。 「おはようございます。さあ~今日も東雲さんの口からからどんな下ネタが飛び出すか楽しみにだな~」 朝から葵の顔を見てニンマリと笑う研修医の武部。 「私はあなたに言わせられているだけで・・・・・・もうその手には乗りませんから」 葵の困り顔が見たくて朝から揶揄う研修医の武部を更に煽る京極。 「せや、東雲さんって人妻なんやてな。人妻はめちゃエロいんやろ?」 「は?」 「なんかさ~人妻っていう、その響きがエロいよな・・・・・・男はさ、手に入らないものを欲しくなっちゃうわけよ」 いつものことだが、研修医たちの自分を対象とした尾籠な話題にあきれ顔になる葵。 そんな卑猥な会話になぜか大きく頷いて見せる谷崎。 「もう、谷崎さんまで・・・・・・そういう悪乗りはいりませんから。いくら研修だからといって、無理に合わせる必要はありませんよ」 朝から、大きなため息を零す葵だった。 「そういえば、鷹司さんが見当たらないようですが」 「あいつ?今朝から消防署で研修ですよ」 「ああ、それは大変だ。明日の朝までの長時間勤務ですからね」 「研修医は消防署でも研修するんですか?」 「そうなんです。研修医は消防職員と一緒に行動して、救急要請時には救急隊と共に救助活動にあたるんです」 「あ、俺も次研修なんで、宜しくおねがいします」 「私は嫌や~むさくるしい男ばかりの中で長時間過ごさなければならへんでしょ」 「そうですね。その日は寝食共にしますから」 「あ、でも知ってるか?女医の水越先生、この実習で出会ったイケメン救急救命士と結婚したんだぜ」 「え?そうなの?」 「先生言ってたぞ『救命士はいい~!』って。料理は作ってくれるし、子供の面倒は見てくれるし、家事しなくても文句を言われないから安心して仕事に専念できるんだとか。とにかく、いい事尽くしらしいぞ。何よりも、あっちが凄いらしい!」 「あっち?」 聞き返す京極に葵も釣られて耳を傾けた。 「救急隊は体力もあって、夜も満足させてくれるらしいぞ」 ――おおっと!そこで下ネタか~い!危ない危ない、油断禁物。武部のバカ! 思わずツッコミを入れたくなった葵だった。 「ですよね。救命士の谷崎さん!」 「え!?あ、はい・・・・・・そうですね。勤務日の夕食は隊員が当番制で全員分の食事を作りますから、料理はお手の物です。救急隊は消防士と違い過酷なトレーニングからは解放されますから体力だけは無駄にありますよ」 「だってさ、東雲さん。谷崎さんも夜が凄いんだってさ!」 「はぁ?彼はそんなこと、一言も行ってないでしょ。言ってないから。谷崎さん、迷惑だって言い返してやってください」 葵は谷崎を見やると、顔を赤らめ満更でもないといった表情を浮かべていた。 「え?そうなんですか?谷崎さん・・・・・・」 思わず詰め寄る葵に、そうだなんて言えるはずもない谷崎は笑って誤魔化した。 「俺これから、谷崎さんのこと帝王って呼ぼうかな~」 「ねえ、谷崎さん。私にイケメンの救急救命士さんを紹介してくれない?」 瞳を輝かせ、谷崎に詰め寄る京極だった。 女医の結婚事情―― 女医は同業者同士で一緒になることも多いが、すれ違い生活から離婚率も高かった。他職種の一般男性と結婚する女医も少なくないのだ。 その時、ホットラインが鳴った―― それまで、わちゃわちゃとはしゃいでいた研修医たちは静まり返り、その場はピリリとした空気に包まれた。 現場の救急隊からの連絡に、谷崎の表情が強張り握りしめた拳に力が籠る。 皆耳をそばだて聞き入った。 「こちら○○市消防局○○救急隊の救命士○○です。交通外傷における心肺停止状態患者に対する指示要請です。患者は五十代男性――乗用車はセンターラインを大きくはみだし対向車線を走行してきた大型トラックに正面衝突、大破。要救助者は現在、車内に閉じ込められた状態で救助活動中。接触時、頭部からの出血あり初期波形CPA(心肺停止状態)にてCPR(蘇生)施行中。これより、地域MCプロトコールに従い特定行為の静脈路確保アドレナリン薬剤投与の指示要請をお願いします!」 ホットラインに対応した葛城医師は、現場の救命士に的確な指示を出し救急要請を受け入れた。 「あれ?○○救急隊って、鷹司の実習先の救急隊じゃないか?」 そう呟く研修医の武部と京極は顔を見合わせた。 「ハァ、ハァ・・・・・・」 突如葵は、息苦しさを覚え冷汗をかき始めた。 「あれ?東雲さん、どうしたん?具合でも悪い?」 葵はその場にしゃがみ込みうずくまる。 救急隊からの第一報を聞いて、毎晩のように魘される悪夢の光景がフラッシュバックし立っていられない程の恐怖を感じた。 「あ~これは過換気ね。東雲さん、ゆっくりと大きく呼吸して・・・・・・」 葵の突然の変化に谷崎はオロオロとしていた。 「谷崎さん、東雲さんを救急室のベッドに横にしてあげて。後で上の先生と様子を見に行くから」 京極は救急医に葵の状況を伝えに行った。葵は苦し気な表情で谷崎に支えられながらベッドへ移動した。 「大丈夫ですか、東雲さん。まだ呼吸が速いようです。ゆっくり息を吐いてください」 神妙な面持ちで葵を介抱する谷崎。 「ハァ・・・・・・すみません、ハァ・・・・・・少し休めば、ハァ・・・・・・すぐよくなりますから、ハァ・・・・・・」 胸に手をあて苦しさを堪える葵。 「無理しないでください」 谷崎はベッドサイドに腰かける葵の背をそっと支えた。 救急スタッフたちは、受け入れ態勢を整える。 ストレチャーには大きめの処置シーツを敷き、ガラスの破片に対し革の手袋を用意、モニター、救急カート、酸素、吸引、カウンターショック、人工呼吸器、点滴などを配置。準備万端だ。 それから、現場の救急隊から第二報が入ったのは第一報からほど経ってからのことだった。 患者は蘇生処置を施されながら、確保された末梢静脈ルートからアドレナリンを投与後に心拍が再会したという情報だった。 「やはり、現場での末梢静脈ルートの確保は重要なんだ・・・・・・」 谷崎は緊張した面持ちで誰に語るわけでもなく呟いた。 救急隊は三人一チームとなり、救助活動にあたる。 時として今回のような凄惨な現場に赴き、救助活動を行わなければならない。 救命士としてできることを最大限に生かし患者の命を次に繋ぐのだ。 救命士は現場に逸早く駆けつけ素早く患者の観察、状態の把握、トリアージを余念なく行い判断し的確な処置対応を要求される。 いつかこのような事態に自らが立ち向かわなければならないのだ、と自分に言い聞かす谷崎は言いようのない緊張感を覚えた。 判断を誤ることは許されない。それは不安と恐怖、孤独な戦いでもあった。 虚空を見つめたまま思考を巡らせる谷崎を、葵は無言のまま見守った。 救急車が到着し患者が搬送されてくると、救急隊の中に一人だけ白衣にヘルメット姿という一風変わった出で立ちの男に、救急外来のスタッフは皆顔をニヤつかせた。 「やっぱりお前か~!持ってんな~鷹司~!お疲れ、お疲れ~」 救急医の葛城医師は研修医の鷹司の背をバシバシと叩きながら労いの言葉をかけた。 「それ、喜べないところですよ~いきなりの出動でしたから・・・・・・」 武部は、二人のやり取りを横目に口の端を上げるも、直ちに診察を開始した。それに続く京極。二人の顔は真剣そのもの。先程とうって変わってキリリとした面持ちの医者の顔になっていた。 「席を外してすみません」 そこへ葵が駆けつけた。 「東雲さん、まだ休んでいた方がいいですよ」 「ご迷惑をおかけしました。もう、大丈夫です」 葵は「ふう」大きな深呼吸をして業務に就いた。 現場救命士と一言二言挨拶をかわした谷崎も患者の観察を行った。 医師も同行していたからか、末梢静脈ルートがツールートも確保されていた。 おかげで時間短縮ができCT、レントゲンの画像診断も早かった。 CT操作室のPC画面前で所狭しとばかりに肩を寄せ合い食い入るように見つめる、レントゲン技師、葛城医師、研修医武部、京極、救命士谷崎と葵。 「ああ~、やはりな・・・・・・」 葛城医師は脳神経外科医に直ちにコンサルトした。 「これ、何か分かるか?」 PC画面を見つめる武部と京極は、葛城医師からの質問に即答した。 「SAH(ザー)です」 葛城医師は大きく頷いた。 SAH(ザー)――それはくも膜下出血のこと。 脳は三層の膜に覆われていてその膜の隙間であるくも膜下空に出血が生じたもの。その八割~九割は脳動脈瘤の破裂とされるが、出血を起こしやすい脳動静脈奇形によるものや、外傷によって引き起こされることがある。 症状は、突然バットで頭を強く殴られたような非常に痛い頭痛が生じることが特徴。CTでヒトデ型の白い影が写る特徴的な画像が見られる。 事故の要因が患者の病気に起因するものかどうか、後で警察が画像の確認と医師の診断結果を聞きにやってくることだろう。 今回この患者は一件事故による外傷によって起因するものと思われがちだが、状況からして突如くも膜下出血に見舞われた患者がセンターラインを大きくはみだしトラックと正面衝突したという考えのほうが有力だった。 だとしたら、再出血の可能性も高く出血により圧迫されている脳は命の危険がある。脳の圧迫を下げるための血種除去と動脈瘤のクリッピングあるいはコイル塞栓術の手術が急がれることだろう。 再出血防止のために、できるだけ患者を刺激しないよう皆でそっと移乗し、ストレッチャーでの移動に細心の注意をはかり、部屋の照明を落としできるだけ静かな環境で休ませ専門医の到着を待った。 案の定、頭部血管造影検査にて未破裂の動脈瘤が見つかり緊急手術となった。 その後、研修医の武部と京極、救命士の谷崎は救急医の葛城から搬送されてきた患者についての振り返りを兼ねたレクチャーを受けた。 「いいか。客観的な視点における観察、正しい知識と冷静な判断、的確な処置と対処、指示が患者の命を救うために重要だ」 彼らは実践を通して改めて命と向き合うことを学んだ。 これから先の未来、過酷な医療現場の第一線で活躍を期待される彼ら。 新人たちの背を後押しし、未来に向かってアシストする先輩医療従事者たち。 間もなく彼らは、与えられた翼を広げ巣立っていくことだろう。 瞳を輝かせ羽ばたく彼らの姿に、眩しさを覚える葛城医師だった。
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