白衣の戦士 葵と桐生

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白衣の戦士 葵と桐生

医局で遅い昼食を摂ろうとやってきた桐生。 日々の業務に追われまともな食事もとれていない本日の彼の昼食は、コンビニのサンドイッチと缶コーヒー。 自分専用デスクに肘をつき目頭を押さえる桐生は、疲労の色を滲ませていた。 「桐生先生、だいぶお疲れの様子ですね」 桐生の後輩にあたる内科医の牧野が、労いの言葉を掛ける。 「ああ、ここのところ休まらない当直が続いたからな。それに、論文も手がけているところだから、今眠不足で死にそうだ・・・・・・」 「ほどほどに休んでください。息抜きも大事ですよ。そういえば、見ました?飲み会の誘いがいくつか来ていますがどれに参加します?」 「どうせ病棟主催の送別会だろ・・・・・・移動する内科医はいないから、今回はパスする・・・・・・」 「そうですか・・・・・・それは残念ですね。桐生先生を誘ってくださいって、病棟看護師さんたちに頼まれているんですよね。きっと彼女たち泣きますよ」 「そうかもな」 桐生は人ごとのように笑って見せた。 その時、とある部署主催の案内に目が止まり、じっと見入る桐生。 「どうしたんですか先生?」 「やっぱり、これに参加する!」 桐生は破顔した。 その日、早々と夕食の支度を澄ませた葵は、いつもよりおしゃれをして家を出た。 履きなれないヒールのハンプスをカツカツと鳴らせながら目的地に向かう葵。 途中、街のショウウインドーに映る自分の姿を見ては、どこかおかしなところがないか気になった。 職場の飲み会に参加するのは実に久しぶりだ。 今日は、救急外来主催の送別会幹事を務めることになった葵は、開始時間より速く会場に到着した。 「東雲さん、皆からお金を貰ったらこのリストにチェックしてくれる?」 「わかりました」 葵は参加者名簿に目を通す。そこには桐生と谷崎の名もあった。 「ふぅ」とひとつ深呼吸する葵。 わかりにくい会場への案内のため、店舗入り口で皆を出迎える葵。 「お疲れさまです」 「やあ、東雲さんが参加するなんて珍しいじゃないか。あ、これ少しばかりだが二次会の足しにでもしてくれ」 「ありがとうございます」 救命救急センター部長、葛城医師と一緒にやってきたのは救急救命士の谷崎。 彼は、口をぽかんと開けていつもと雰囲気の違う葵をじっと見つめた。 「どうした?谷崎君」 「い、いえ、何でもありません・・・・・・」 「どうぞ、会場はこの奥となっています」 会場に促され歩みを進める谷崎は、足を止め振り返ると葵を見つめた。 暫くすると遅れて桐生がやってきた。 「お疲れさまです。桐生先生」 桐生は葵を見てドキリとする。 足元はヒールのパンプス。美しい体のラインが際立つロングタイトスカート。露出を抑えながら肌見せしてくれる、白いシアー素材の上品な透け感トップスにキャミソール。胸にまで届くシンプルなデザインの金のネックレス。 下ろされたセミロングのさらりとした髪が、彼女の動きに合わせて揺れ動く。 口角をキュッと上げて微笑む彼女の綺麗な形の唇に、艶めく淡い色の口紅。 桐生は、別人のような葵に目を奪われた。 「――いだ・・・・・・」 「?あの、今なんて言いました?」 桐生は思わず心の声が漏れしてしまい焦った。 「あ、ああ・・・・・・か、幹事は大変だな・・・・・・それより、家の方は大丈夫か?」 「はい。さすがに今日は仕方ないですよね。家族には朝帰りになるかもしれないと伝えてありますから・・・・・・」 ――マジか!?・・・・・・それって、君と朝まで過ごせるということか・・・・・・無理してでも来たかいがあったというものだ~! 葵に悟られないように、心の中で天を仰ぎガッツポーズをして見せた。 「桐生先生、なんか楽しそうですね」 「そ、そうか?」 桐生は浮ついた心を葵に悟られないように取り繕ったつもりだが、心の底から湧き出る歓喜は隠しようがなく無意識に顔が緩くなる。 「はい。初めて見る表情です」 ーー君がいるから、楽しいに決まっているじゃないか 「皆さん、今日は飲み放題なのでどんどん頼んでくださいね」 飲み会が始まると葵は皆の席をまわって歩き、飲み物のオーダーをとって回った。 そんな葵を目で追う桐生。 真面目な葵は、飲み会の席であっても業務のようにこなしていた。 桐生は自分を取り囲む看護師たちに、あれやこれやとどうでもいい質問を投げかけられ適当に返す。 そんなことよりも葵のことが気になって仕方がなかったが、桐生の席から遠く離れた背面側に座る彼女の姿を見ることが出来ない。 ――つまらない・・・・・・ それからすると、救急医たちの傍に座る救命士の谷崎は、先程からずっと遠巻きから葵をじっと見つめているではないか。 ――気に食わない・・・・・・ 桐生は不機嫌な表情を浮かべた。 飲み会も中盤を超える頃、皆席を移動し始めた。 飲み物の注文に回る葵は葛城につかまり腰を下ろした。 ――チャンス到来! 桐生は葛城に話し掛けながら、ちゃっかり葵の隣に座り込んだ。 葛城の向かいの席に座る葵。葵の左隣に桐生、桐生の向かいに谷崎だ。 「東雲さん、飲んでるか?」 「あ、はい。今日はまだ、飲んでいません」 葛城はやってきた店員に声をかけ、葵の好みの酒を注文させた。 「じゃあ、あらためて乾杯!」 葵もアルコールを口にした。ジンジャエールのほんのりと甘くレモンの爽やかな味が美味しいジンバック。夫以外の人たちと、何年振りかのアルコールを口にした。 アルコールが回り始めたせいか「ほぅ」と息を吐く葵は、緊張感から解放され心なしか幸せな気分に包まれた。 こんな気分に浸るのは久しぶりだった。 葵は、嫌なこと忘れさせてくれそうなこのひとときを楽しむことにした。 夜勤明けからの日勤業務をこなし今日の飲み会に参加した桐生。 葵が幹事を務める今日の飲み会は、なんとしてでも参加したかったのだ。 だが、疲労がピークだった。そのせいか、いつもに比べ酔いが回るのが早い。 「今日は、いつも飲み会に参加しない東雲さんが来てくれて嬉しいよ」 しみじみと語る葛城医師。 ――嬉しいのは葛城だけじゃない。この俺もそして目の前のこいつもだよな 先程から葵に見惚れる谷崎は、桐生の冷たい視線にも気づかない。 今日の桐生は、やけに酒が進みいつもに比べピッチが速かった。 お酒のせいだろうか。頬を薄紅色に染めてトロンとした目で、葛城の質問にゆっくりな口調で答える葵。 ああ、こんな表情も見せるんだと、桐生は新たな発見に心ときめかせた。 その時、畳みに手をつく葵の白くて長い指に目が止まった桐生は、好奇心を抱き彼女の指先にそっと触れてみた。 一瞬、ピクリとした葵。桐生にしかわからない変化だった。 彼女の小動物のような反応が妙に可愛くて、悪戯心に火が付いた。 桐生は、さり気なく手を引っ込めようとする葵の手を握った。 ――え!? 葵の心臓がドキリと音をたてた。思わず桐生の顔を見あげる葵。 だが、桐生はそのまま何事もなかった素振りで葛城と会話を続けている。 葵は皆に気づかれないように桐生の手からすり抜けようとすると、更に強く握り返された。 再び桐生の顔を見る葵だが、桐生は全く動じない。 酒の席で酔った勢いの軽はずみな悪戯と捉えた葵は、困惑しながらも桐生が手を離してくれるタイミングを見計らっていると、今度は葵の指を絡めとるように繋ぎ直した。 「き、桐生先生!?」 桐生の奇行に思わず声が出てしまった。 「どうした?東雲さん、酔いが回ったか?今一気に頬が真っ赤になったよ」 頬を深紅の薔薇のごとく真っ赤に染めた葵は、葛城に指摘され羞恥に俯いた。 「本当だ・・・・・・かわいいな・・・・・・」 桐生は、葵の反応を見て楽しんでいるようにも見えた。 今テーブルの下で起こっている出来事を、誰かに気づかれるかもしれないスリルと、谷崎の目の前で彼女を独占している優越感に気持ちが高揚する桐生。 この時、桐生はかなり酔っていた。上半身がゆらゆらと揺れている。 葛城と会話する桐生は葵に寄りかかるように倒れてきた。 「桐生先生大丈夫ですか?」 「いつもこんなに酔わない桐生先生が、今日は珍しいな・・・・・・」 「私、お水貰ってきます」 葵は倒れ込む桐生を畳に寝かすと席を立ちあがった。 一次会も終わり二次会へ皆が移る頃、葵は桐生の姿が見えないことに気づいた。誰かと二次会に移動したようだ。 一次会担当だった葵は、支払いを済ませ忘れ物がないか見てまわった。 店を出ようとしたその時、トイレから桐生がふらつきながら出てくるところに出くわした。 「桐生先生!?まだこんなところにいたんですか?大丈夫ですか?」 「ああ、東雲さん・・・・・・皆はどこに行った?」 「皆さんはもうとっくに、二次会に向かいましたよ」 「じゃあ、一緒に行こう~」 葵はふらつく桐生を抱えるように店を後にした。 桐生は途中足が止まり、何度か倒れそうになった。その都度冷や冷やする葵。 「うっ・・・・・・寒い・・・・・・」 桐生はブルブルと震え出し悪寒を訴えた。 「桐生先生?どうしたんですか?」 「ダダの風邪だ。さっき病院出る前に風邪薬飲んできたから大丈夫だ」 「え!?風邪薬を内服してお酒も飲んだのですか!?」 「ああ、そうだ」 「何してるんですか!?薬とアルコールなんて危険です!どうして体調が悪いのにお酒の席なんかに出席したのですか?それでは医者の不養生じゃありませんか」 「今日は、何が何でも来たかったんだ・・・・・・君が、来ると知って・・・・・・」 「え?」 葵は、その言葉の意味をどうとらえていいのか戸惑った。 「先生、ちょっとそこのベンチで少し休んでいきましょう」 公園に差し掛かり葵はベンチに桐生を誘導した。 だが座位の保持が出来ない桐生は葵の方にだらしなく倒れ込む。 「桐生先生、しっかりしてください・・・・・・」 葵の膝に倒れ込んできた桐生から寝息が聞こえてきた。 「桐生、先生?」 仕方なくそのまま膝枕し、休ませることにした。 気持ちよさそうに葵の膝で眠る桐生。 身動きすら取れず途方に暮れた葵は、薄暗い夜の公園を見渡した。 ――し、しまった・・・・・・ここは、かの有名なイチャパラ公園じゃない! 飲み屋街にほど近いこの場所は、昼間こそ幼い子供連れの親子が集う公園。 だが、夜ともなると一変しどこからともなくやってきた男女がそこいらでイチャつき、誰にも邪魔されないこの公園はカップルにとってはまさにパラダイスなのだ。 葵たちが直ぐ傍にいるにもかわらず抱擁する男女の姿。熱い濃厚な口づけに夢中のカップルたちが、あちらこちらで人目も憚らず好き勝手にイチャイチャしていた。 「あ~桐生先生~!早く起きてください!桐生先生~」 葵は一刻も早くここから抜け出したくて桐生を揺さぶり続けるが、全く起きる気配なし。途方に暮れる葵。 とその時、遠くから聞き覚えある者たちの声が聞こえてきた。 よく見ると、二次会から参加することになっていた仲間たちがこちらに向かってやってくるのが見えた。 「ね~、せっかくだから、イチャパラ公園抜けて行かない?」 葵の先輩看護師、森山絵里の声だ。 ――まずい!こんなところを見られでもしたら、後で何を言われるか。きっと、院内中の噂になってしまう 葵は絶体絶命のピンチに追いやられた。 だが、彼女は何もやましいことなどしていない。 ――本当のことを言って皆に助けてもらおうか。いや、その場は何とかなったとしても、噂話に花が咲き事実無根の噂が広まってしまうに違いない。このままだと自分のせいで、桐生先生にまで迷惑をかけてしまうことになる。私がこんなところで休もうだなんていったばかりに。もっと注意すべきだった・・・・・・これが後悔先に立たずということなのか・・・・・・ 切羽詰まる中、葵は苦肉の策を思いついた。 まず、葵の膝で眠る桐生の顔が皆に見えないように、彼の頬を両手で包み込み自分の方に向ける。そして、イチャつくカップルを偽装し彼に覆いかぶさり、その場をやり過ごすというものだ。 ーーよし。これならば下ろした髪に遮られ二人とも顔を見られることもない。 森山たちはもうすぐそこまでやって来た。背に腹はかえられない。 葵は作戦を実行に移す。 ――桐生先生ごめんなさい・・・・・・ちょっとだけ失礼します 気持ちよさそうに眠る桐生の頬を両手で包み込みこちらに向けると、桐生から「ん~あおい・・・・・・」と甘ったるい声が上がった。 想定外の出来事にハッとした葵は、慌てて桐生の耳元で囁いた。 「先生!今だけお静かに!」 森山たちが葵と桐生の横を通過しようとしていたその時。 「っ!?」 目を白黒させる葵。 突如、桐生は葵の首に手をまわしグイッと引き寄せ彼女の唇に口づけた。 それは、森山たちが葵と桐生を横目に通過している最中の出来事だった。 「うわぁ~えげつない・・・・・・」 森山の呟く声が葵の耳まで届き、心臓がはち切れんばかりに高鳴った。 身動きの取れない葵は、森山たちがいなくなるまでカップルを装い桐生の口づけを受け入れる他なかった。 森山たちがいなくなったのを見計らい、葵は桐生から離れようとするが放してくれない。 「んっ、んっ・・・・・・」 舌を絡めとり、息が出来ないくらい蕩けるような甘い口づけにすっかりほだされてしまった葵。 唇を解放された葵は、惚けた表情をしていた。 これまで見たこともない葵の艶っぽい表情に魅せられてしまった桐生は、ますます煽られた。 葵への溢れる思いを抑え切れなくて、ついに心突き動かされた。 「葵・・・・・・君のことが、好きだ・・・・・・」 熱っぽい視線を注ぐ桐生は、葵をまっすぐに見つめていった。 突然の情熱的な口づけに、まさかの告白。 想定外の出来事に葵の思考は混乱し、頭の中が真っ白になった。 だが、少しして葵は思い直した。 これはお酒に酔った桐生の女性を口説き落とすゲームなのだと。今自分は、ゲームのターゲットなわけで。 結婚していて子供がいる葵。夫にすら女性として扱われることのない自分が、独身男性に女性として映るわけがないのだ。 なのに、一瞬でも心ときめかすなんて自惚れにもほどがあると、自嘲する葵。 桐生は若い独身の医者だ。モテる彼は、これまでにも数えきれないほどの女性たちとつき合ってきたことだろう。 女性慣れしている彼からしたら、このようなことは日常茶飯事。女性を落すことなんて朝飯前なのだろう。 桐生はきっと、口説かれて舞い上がる自分を見て楽しんでいるに違いない。 ――私って、そんなに寂しそうな女に見えるのだろうか・・・・・・ 惨めな自分が情けなくて、胸が抉られたように苦しくなった。 「泣いているの?」 桐生にそう言われたそばから、涙がポロポロと零れ落ちていく。 「ごめん!急にあんなことされたら・・・・・・嫌だよな・・・・・・」 「桐生先生、こんなことして楽しいですか・・・・・・」 「え?」 「悪趣味です・・・・・・先生は、戸惑う私の反応を見て楽しんでいるだけですよね」 「え!?何を、言っている!?」 「夫に愛想を尽かされた寂しい女を落とすのは楽しいですか。落ちたらゲームオーバーといったところでしょうか」 「君は、そんな目で僕のことを見ていたのか?そんなんじゃない!」 「夫にだって女性として映らない私が、異性に想いを寄せられるわけがないでしょ。だからって・・・・・・私を見縊らないで!」 「僕は本気だ!僕は、君に恋してる・・・・・・」 「え?・・・・・・」 「・・・・・・気づいていないんだね。君はとても魅力的な女性だ。君に出会った人たちは皆魅了されてしまうというのに・・・・・・それがまた、君の魅力でもあるけどね」 「そんなわけない・・・・・・もういいです・・・・・・私なんか、もうどうでもいいんです・・・・・・」 「何があった?君らしくない。こんな自分がいうのも何だけど、旦那さんとうまくいっていないのか?」 「・・・・・・」 俯いたまま何も語らない葵を暫くそっと見守る桐生だった。 桐生は、再び悪寒を訴え震え出し顔面蒼白となっていった。 「先生?大丈夫ですか?病院に戻りましょう」 「嫌だ」 「そんな子供じみたことをおっしゃらないでください。でしたら、自宅に帰りましょう。今タクシーを呼んできますから、待っていてください」 暫くして、公園に横付けされたタクシーから葵が下りてきた。 先程よりも具合の悪そうな桐生。歩くのもやっとな彼をなんとかタクシーに乗せると座っていられないのか、そのまま横になってしまった。 「酔っ払いだけ乗せられても困るんですよ・・・・・・」 タクシーの運転手の言葉に、葵も同乗することになった。 葵は桐生の自宅に向かうことになった。
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