白衣の戦士 偽という名の旅

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白衣の戦士 偽という名の旅

その日は救急外来を離れ、急遽放射線科の治療室に応援要員として入った葵。 「これから両鼠径部の止血をしたい。悪いが手を貸してくれ」 「はい」 患者を挟んで向かい合う葵と桐生。左右の鼠径部からシースを抜針すると同時に、各々圧迫止血を開始した。 飲み会以来久しぶりに会った二人は、どこか気恥ずかしさを覚えた。 患者を覗けば密室に二人きり。 その場で十分間の圧迫止血は、とても長く感じられた。 先程から、無言で葵をじっと見つめる桐生の熱い視線が正直痛い。 平常心を装う葵だが、隠しきれない心の動揺は頬に籠った熱となり、それを見ている桐生からしたら喜びしかない。 認知症の患者と言っても、意識ある患者の処置中だ。 さすがに患者を前にして突拍子もないことを仕出かしはしないだろうと、葵は高を括っていた。 そんなしばしの沈黙を破ったのは桐生だった。 「今日は、仕事時の眼鏡をかけていないんだな・・・・・・」 「ああ、はい。つけ忘れました」 「・・・・・・君を見ていて、いつも思うことがある・・・・・・」 そう言いかけてやめるため、妙に気になった。 「何でしょうか・・・・・・」 「白くてきれいな肌だな・・・・・・」 いきなり何を言うかと思えば。葵は羞恥に沸騰し、顔面が一気に紅潮した。 しまった油断した。桐生の思う壺だ。葵はそう思った。 あまりにもわかり易く反応するものだから、桐生はクックックッと笑いだす。 桐生に揶揄われ、葵はむくれ顔になる。 「先生、私ではなく患者さんを見てください」 桐生は、葵の忠告に急に真面目な顔をして手元の止血状態を確認した。 「まだ、あと五分といったところだな」 患者は抗凝固剤を内服中だったため、十分間の圧迫では止血されなかった。 圧迫止血は継続された。 再び気まずい沈黙が続いた。 こちらをじっと見つめる桐生は何かを考えているようだった。 葵は桐生の視線から逃れようと俯いた。桐生はそんな葵の顔を覗き込む。 知らんぷりを貫き通す葵だが、視界に入る桐生から目が離せない。 「あっ!」 突如、桐生が声を上げた。 「え?どうかしましたか?」 「今、瞼に赤いものが見えた。血液じゃなければいいが・・・・・・」 処置中に血液が飛ぶことがよくある。感染予防のためにシールド眼鏡を装着するのだが、今日は急遽応援で入ったため眼鏡もシールドも装着し忘れていた。 現に、先程マスクに血液が飛んでいると指摘を受けたばかりだった。 「え!?嘘?瞼にですか?でも今止血中だから手が離せません・・・・・・」 目の粘膜に付着でもしていたら、感染を起こしてしまうため、葵は焦った。 「どれ、よく見てやるから顔を上げて見ろ」 葵は顔を上げ桐生の顔を心配な面持ちで見つめた。 「血液、飛んでます?」 「う~ん・・・・・・さっきは目を閉じたときにちらっと見えたんだよな・・・・・・」 「では、これでどうですか?」 葵が至近距離で目を閉じた。 「・・・・・・」 その瞬間、桐生は葵の唇にチュッと口づけた。 「〇×△□!?」 葵は、目を白黒させ言葉を失い固まった。 「はい!では、終了~!ご気分はいかがですか。無事治療は終わりましたよ~」 桐生は、ニンマリとご満悦な表情を浮かべながら患者に言葉を掛けた。 ――危ない。こんなところを誰かに見られでもしたら・・・・・・ 想像しただけでも怖気だった。 あの日病院に救急搬送されて以来、桐生は人目を盗んではチョッカイばかり出し、葵の心をかき乱す。その度に困惑する葵だった。 いつぞやは、葵が独りで患者をストレチャー移送していると桐生が手伝ってくれた。 こういう場面で手を出してくれることはとても有難い。 だが、そんな日ばかりではない。 偶然エレベーターで桐生と乗り合わせた時のこと。 混み合うエレベーター内で葵の隣にピタリとくっ付く桐生は、彼女の手の甲につつっと触れてきた。 思わずピクリと反応すると、桐生は皆にはわからないように白衣の陰で葵の手を握った。 その瞬間、葵の心臓の鼓動が跳ね飛んで心臓が騒ぎ立つ。 「あ、降りまーす」 言って桐生は、葵の赤面した顔を確認するとニコリと微笑み去っていく。 声が出せないと踏んでの行動か。あざとい男だ。 そのまたある日は。 葵が患者の採血中、突如彼女の耳元でわざと低音ボイスを利かせ甘く囁き指示を出す。 耳に桐生の息がかかり、その瞬間ゾクリとした感覚に襲われ反射的に「ヒャッ」と声が漏れ出てしまいそうなほど。 皆には、患者に聞こえないように会話する医療従事者間の情報交換にしか映らないようだった。 ホントの意味で手ごわい男だ。 よく考えてみたら、これってセクハラなのでは? それからというもの。桐生にばったり鉢合わせしようものならば、条件反射のように身体がビクつき心臓がどうにかなってしまいそうなほど騒ぎ出す。 ここ最近始まった桐生の奇行ともいえる行動は、何か思うことがあってのことのようにも感じられた。 今更で恥ずかしいが、葵の夫婦関係のことは桐生に知られている。 夫の不倫現場を目撃してしまった哀れな同僚を励まそうと、彼なりのエールなのかもしれない。否、よくとらえ過ぎか。 ただ単に、子供じみた彼のしょうもない悪戯に過ぎないのかも知れない。 ただ、そんな日々を送っていると、夫のことで思い悩む日々が減った気がした。 やっぱり桐生は優しいのだと、そう思った。 そんな桐生は、こんな自分に想いを寄せてくれている。 彼に応えることはできないけれど、こんなにも気にかけてくれる彼の優しさが正直嬉しかった。 桐生は見た目と違って案外子供っぽいのだと、そう思っただけで笑みが零れた。 彼のことを考えていると、不思議と胸がほっこりと温かくなる。 葵の心は桐生で占められていく。 本人もまだ気づいていない何かが、芽生えはじめていた。 そんなある日のこと。葵は桐生に人気のない病院裏側に呼び出された。 「葵、お願いがあるんだが。聞いてくれるか」 「な、なんでしょう」 今度は何事かと身構える葵。 「僕の彼女になってくれないか!」 「!?彼女って・・・・・・これでも一応人妻ですから」 「わかってるよ。実は、実家の両親たちがお見合い話を持ち掛けて来て困っているんだ。これまでも何度も適当に断ってきたが。今回はそうもいかなくて。彼女がいると言って断ったら、連れてこいと言われて・・・・・・頼む、人助けだと思って協力してくれ。頼む~このとおりだ~」 桐生に拝み倒される葵。 「それならば、私では余計まずいじゃないですか。院内の若い看護師さんにでも頼んでみたらどうでしょう。皆喜んで引き受けてくれますよ」 「それじゃあ駄目なんだ。手ごわい両親を説得するには君の力が必要だ。な、頼む。この通りだ。こんなこと君にしか頼めない。頼むよ~」 「・・・・・・そんな嘘、直ぐばれるに決まってますよ」 「それならば、嘘から出た実という言葉もあるぞ。任せろ。自身があるんだ」 「・・・・・・いつの話ですか」 「では決まり!日が決まったらまた連絡する。じゃあな」 「え?まだ行くとは言ってませんよ!」 葵は強引に押し切られ、桐生に承諾させられた。 数日後、葵は再び呼び出された。 「急で悪いが、今週末で都合つけることはできるか」 「今週末ですか・・・・・・わかりました。一日何とかしてみます」 「あ、言ってなかったっけ?泊まりだ」 「え!?泊まりですか!?でしたら、お断りさせていただきます!」 結局、葵は桐生の彼女として実家に同行させられる破目になった。 葵は、桐生に指示された時刻の新幹線に人目を忍ぶように乗り込んだ。 念には念を。誰が見ているか分からないため、目立たない格好で帽子を深くかぶり顔がわからないようにして桐生と合流した。 席はグリーン車。席に着くと既に桐生が葵を待っていた。 「おはよう。葵」 喜色満面の笑みで迎える桐生は、葵を下の名前で呼び捨てにする。気づけば二人の時はそう呼ばれていたと今更のごとく気づいた。 「おはようございます」 「まあ、座って」 いつになく嬉しそうな桐生は、葵に奥の窓側の席に座るように促した。 「まさか君と二人きりで、お忍び旅行できるなんて夢のようだ~」 「声が大きいです。私はあくまでも契約彼女であって、これはミッションです。勘違いしませんように」 はしゃぐ桐生に小声で釘をさす葵。 「家の方は大丈夫か?」 「子供たちは両親に預けてきました」 「旦那さんは」 「夫はあれからずっと自宅に帰りません。近況をメールでやり取りするくらいです。今日のことは伝えていないので知らないはずです・・・・・・」 「そうか・・・・・・」 気まずい空気が漂った。 「それより、まだどちらに行くのか聞かされていないのですが」 「ああ、そうだったな。実家は岡山だ」 「岡山・・・・・・」 車窓から住み慣れた街の景色が遠のいていく。 隣には、端正な顔立ちの長身男性が柔らかな笑みを浮かべてこちらを見つめている。 不思議な感覚に捕らわれた。 自分はその男性の彼女という謎の設定のもと、彼の両親に挨拶に行くのだ。 いざ、岡山へ―― 行ったこともない知らない街。その時、何故か胸の高鳴りを覚えた。 「葵、僕のことは(たける)と呼んでくれて構わない」 「さすがに呼び捨てはまずいのでは。では、健さんで・・・・・・」 桐生は葵に下の名前で呼ばれると瞳を輝かせた。 「名前をもう一度言ってくれないか」 「健、さん・・・・・・」 「もう一度・・・・・・」 「健さん」 「もう一度!」 「・・・・・・もう、いいでしょう・・・・・・」 あきれ顔した葵は、桐生を無視することした。 「葵~冷たいじゃないか~」 「お遊びは終わりです」 何やら面倒な旅になりそうだ。嫌な予感しかしなかった。
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