白衣の戦士 リストカット

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白衣の戦士 リストカット

遠くから救急車の音が近づいてくる。 外科当番の今日、救急搬送される患者が後を絶たない。 「ただ今戻りました」 葵は息を切らして救急外来に駆けてきた。 「ああ、お帰りなさい。大丈夫だった?スタットコール。応援に行ってあげられなくてごめんね。見ての通り、ここもこんなでさ・・・・・・」 救急のフロアーは、患者の呻き声やモニターのアラーム音、飛び交う医師の指示や携帯のコールサウンド、パソコンのキーボードを打つ音の喧騒で埋め尽くされていた。 その先の観察室を覗けば、検査結果待ちの患者や入院待機中の患者とその家族たちで溢れかえっている。 「忙しい中、長時間席を外してすみません」 「何言ってるの?カテ治療入ってもらって、こっちこそ助かったわよ。聞いたよ。蘇生したんだって?」 「はい。一時はどうなるかと思いましたが、治療も無事終了しICUに上がりました」 「よかった。で、早速で悪いんだけど。今到着した救急車、ストレッチャーが足りなくて困っているの。動ける人だから、3番診察室で受けてくれる?」 「わかりました」 「あと言っとくけど、リストカットした人だから絶対家族には患者の傍から離れないように伝えてよ。じゃ、頼んだからね」 「はい、わかりました」 息をつく間もない程の目まぐるしい夜勤。 「こちらでお願いします」 救急隊からの申し送りを聞き患者到着を医師に連絡、口頭指示を受ける。 「里田麻衣香。27歳OL。昨日同棲中の男性との痴話喧嘩をきっかけに、本日19時頃手持ちの睡眠薬を5錠服用後、自室のベッドでリストカットをはかったもよう。20時頃帰宅した男性が発見、救急要請され救急搬送となりました。こちらが、内服したと思われる睡眠薬の殻をごみ箱から回収したものです。本人に確認したところこの薬で間違いないそうです。左手首は自身がカッターで切りつけ、切創は動脈には至っていませんが深く神経を傷つけた可能性があります」 患者の左手首は、救急隊の応急処置が施され包帯が巻かれていた。 初めてのリストカットという送りだった。 患者は、言葉かけには応じるが、睡眠薬の影響もあり傾眠だった。 葵は医師の指示に従い、右手から採血後点滴を開始した。 医師が創部を観察、処置のため包帯が外された。 リストカットの常習患者は手首から前腕内側に、酷いとアームカットと呼ばれる上腕に至るまで、切り刻まれた痛々しい刻印が目につくものだ。 だがこの患者は、ためらい傷は何本か見られたものの、他目立った古傷は見当たらなかった。 何が彼女をここまで追い詰めたのか気にはなったが、葵は患者の心を守るために深入りは厳禁としていた。 一通り処置が済んだ患者は、駆けつけた母親の付き添いのもと観察室と直結した静かな診察室で入院待機となった。 その後も葵は救急車対応、処置、介助、記録、ナースコール対応に忙しなく救急のフロアーを駆けまわっていた。 「あの、すみません」 葵は患者に声を掛けられる。 「はい。どうなさいましたか」 「トイレ、行きたいです」 リストカットの患者、里田麻衣香だった。 眠剤の影響でふらつきが見られたため、介助にて車いすでトイレへ誘導した。 葵はトイレの扉越しに待機しようとすると、患者から排泄が済むまで一緒にいて欲しいと依頼された。 「あの、私、あっち向いています。何かあったら声をかけてください」 葵は患者に背を向ける形で同室した。 「看護師さん、真面目だね」 「え?そうでしょうか?」 「うん。見ていればわかる」 患者はクスクスと笑い声をあげた。 「さっきから先生たち、看護師さんに何でもお願いしているよね。患者さんもね、ナースコール押さないで看護師さんが来るのを見はからって声をかけているよ。ねぇ何故だかわかる?」 そう言われてみれば確かに思い当たる節があった。 受け持ち看護師が席を外した途端、患者は葵に声をかけるのだ。 これが、葵の業務が増える原因というのもうすうす感じとってはいたが、理由までは分からなかった。 「う~ん。下っ端ナースだからでしょうか?」 患者は再びクスクスと笑った。 「お人よしだからよ」 葵は、『自分の知らない他人から見た自分』をこの時初めて知った。 「私がですか?」 「もしかして自覚していなかったとか?」 葵は患者を介助し観察室と続きの診察室へ連れ戻した。 「看護師さんともっと話したかったな・・・・・・でも無理か。忙しそうだもんね」 「はい。すみません」 日付が間もなく変わろうとしていた。 里田の母親は、急遽入院に付き添うことになったため、一度帰宅したいと願い出た。 どうやら、一人で留守番している7歳の孫がいるらしい。 二児の母でもある葵は、こんな時間帯まで一人ぼっちで心細いだろうと孫を心配した。 1時間以内に戻れると話すが、その間患者を一人にすることはできない。 気の毒だが断ろうと思ったその時。 「あーここに居た。東雲さん、これから休憩に入ってくれる?とりあえず、今から1時間行ってきて」 休憩はその日の状況に合わせ交代して入る。多忙時は休憩すら取れないことも多々ある。 「わかりました」 葵は患者の母親が戻るまで休憩をこの診察室でとることにした。 「いいの?」 「内緒ですよ。お孫さんが怖い思いをしているでしょうから」 葵は、口元に指をあてお茶目にウインクして見せた。 「ふふふ、やっぱりお人よし」 「そうでしょうか」 「看護師さんの名前、東雲さんって言うんだ。ふぅ~ん」 里田は自殺未遂で救急搬送されたと思えないくらい、とても明るく人懐っこかった。 ――ん?東雲?こんな時間に何してる。業務中ではないのか? 患者と葵がいる診察室にはスライドドアが三つあり、ひとつは観察室、もうひとつは待合室、あとひとつは隣のカンファレンス室に繋がっていた。 隣のカンファレンス室では、桐生医師がカルテの記録をしているところだった。 「東雲さん、今つき合っている人いる?」 「私は結婚しています」 「え?東雲さん人妻なの?」 「はい・・・・・・」 「うっそ。見えな・・・・・・てっきり独身かと思った」 「東雲さん、なんか、旦那さんに大事にされていそう。ラブラブでしょ~」 同棲男性と痴話揉めの末、自殺企図した患者とする話ではないと葵は感じた。 「そうでもないですよ」 「なんか幸せそう。東雲さんの旦那さん、幸せだろうな・・・・・・」 「そうでしょうか・・・・・・そうだといいのですが・・・・・・もしまわりにそう映るのでしたら、私は嘘つきなのかもしれません」 ――ん?今何て言った?東雲さん? 桐生はパソコンキーボードをを打つ手を止めた。 「旦那さんとはうまくいっていないの?」 「それは夫でなければ・・・・・・私にもよくわからないのです」 「東雲さんは、私にどうして自殺未遂なんか起こしたか聞かないんだね」 「人には、踏み入れて欲しくない領域があるかと・・・・・・」 「ははは、そっか・・・・・・なんか東雲さんらしいというか。他の医師や看護師さんからは『どうして自殺なんかしたの』って質問攻めだったから・・・・・・」 「それはさぞかし不快な思いをされたことでしょう。では、私が代わりに謝罪します。申し訳ございませんでした・・・・・・」 診察室パソコン前の椅子に腰かけていた葵は、その場ですっと立ち上がり最敬礼した。 「真面目だな~東雲さん・・・・・・本当はね、誰かに聞いて欲しかったんだ。東雲さんになら本当のこと話せそう。聞いてくれる?私の話・・・・・・」 「私は構いませんが、里田さんがお辛いのではありませんか」 「なんかね、話してすっきりしたいんだ」 「私たち同棲して3年、そろそろ結婚をという話になった。結婚式の日取りも決まり招待状を郵送する頃。彼は二股をかけていたことが発覚したの。しかも、浮気相手が妊娠し彼は責任をとらなければならなくなった。私たちの関係は破局を迎え、彼は浮気相手と結婚することになった。彼は謝ってくれたけど、私の心は行き場を失った。だから腹いせに自殺して彼を困らせてあげたかった。私はまだ彼のことが好きなの。彼を取り戻したいの。どう思う?こういう愛のカタチってどう思う?」 突如質問を投げかけられ、なんて答えたらいいか戸惑いを隠せない葵。 「やっぱり・・・・・・幸せな東雲さんにこんな話、迷惑だよね・・・・・・」 里田は、左手首の包帯をじっと見つめながら呟いた。 「・・・・・・里田さんはこれからまだ、十分やり直せる。私とは違うもの・・・・・・」 「東雲さん、どうして結婚しようと思ったの。なれそめが知りたい!」 「え?私の話なんか面白くもなんともないですよ。そんなでよければ・・・・・・」 葵は夫と出会った頃を懐古した。 それは葵が22歳の誕生日を迎えた日のこと。 社会人だった葵は車を購入しようと、あるディーラーを訪れた。 その日の店頭営業マンが、葵の未来の旦那さんになる人だった。 夫はにこにこと葵を見つめていた。 夫があまりにも見つめるものだから気恥ずかしくて、葵は夫の視線に気づかない振りをして、テーブルの上のパンフレットをひたすら見ていた。 その頃の夫は葵より11歳も年上と感じないくらい若々しく見えた。 ――私、この人に縁がある・・・・・・ 何故だかこの時葵は、タイプとか一目ぼれとかそういったものとはまた違う、運命的なものを直感的に感じていた。 初めて感じる不思議な感覚だった。 世の人たちがよく言う、『ビビビッ』と来たというのはこのことかと。 納車の日、一人新車に乗って現れた夫は、葵にディーラーまで送って欲しいと言った。 その途中、夫に昼食を誘われファミレスで一緒に食事をした。 超人見知りする葵にはあり得ないくらい珍しい行動だった。 包容力があり、大人の男のゆとりを感じさせる夫は、とても優しくて一緒にいるだけで癒された。 二人が恋に落ちるには時間がかからなかった。 こんなにも素敵な夫に、彼女ができないどころか結婚していないことが不思議なくらいだった。 だがある日、夫は食後こっそり薬を内服していることがわかった。 「いつも何の薬を飲んでいるの?」 そう質問する葵に、少し困り顔した夫は正直に答えてくれた。 悲しいことに、夫には持病があった。 それは、悪化したら社会復帰は不可能な重い病気だった。 それを聞いて葵は愕然としたのを覚えている。 葵は、薬を飲むような人とは結婚してはいけないと母親から厳しく言われて育った。 きっと、娘の幸せを願う母親は、苦労して欲しくないと思ったからだろうか。教訓として幼き頃から言い聞かされてきたことだった。 だから、親の言いつけに従わなければならないと思った葵は、悲しいけれど夫に別れを告げようとしていた。 その時夫は別れを悟ったのか、葵にこう言った。 『前にもつき合っていた人がいたんだけど、僕が病気だと知った途端に離れて行ったよ』 その時私はハッとした。 何故か夫は笑いながらそう話していたけれど、葵にはとても寂しげに見えた。 その時の夫の顔が今でも忘れられない。 その時葵は「ああ・・・・・・」と思った。 だからなんだって。自分がこの人と出会ったことには意味があったんだって。 『私は、この人を幸せにしてあげるために出会ったんだ』って、そう思った。 その時、葵は夫との結婚を決意した。 「だから、夫からのプロポーズの言葉は聞いてないかも」 笑う葵。 両親には夫の病気のことは内緒にして結婚した。 それは覚悟でもあった。 歳の差だけでも猛反対するような両親だったから、病気のことを知ったら結婚は許されなかっただろう。 「私は、夫が働けなくなった時のことを考え、将来家族を養っていけるようにと子供を出産した後、看護師になったの」 「東雲さん・・・・・・嘘でしょ・・・・・・そんなことってあるの・・・・・・」 話し終える頃、里田は涙ぐんでいた。 「ごめんなさいね。あなたを泣かすつもりはなかったんだけれど・・・・・・」 ――東雲さん・・・・・・ いつしか桐生は葵の話に聞き入っていた。 葵の心に触れた気がして、胸がいっぱいになった。 「でも、今はお子さんもいて幸せなんでしょ。きっと旦那さんは東雲さんのこと世界一好きなんだろうな・・・・・・」 「・・・・・・」 急に返答に困る葵は俯いた。 「東雲さん?どうかしたの?」 「それはないかと・・・・・・夫は、もう私のことは好きではないのだと思います」 「え?どうして?」 「こんな事話してもいいでしょうか。私たち夫婦はセックスレスなんです」 「えええ!?まだ若いのに!?」 「えっ!?」 桐生はあまりにも驚き、思わず声が漏れ出てしまい慌てて口元を押さえた。 ――ええええええ!?何だって!?それは本当か!? 「でも、お子さんがいますよね・・・・・・」 「はい。主人と結婚してすぐに子供ができました。妊娠後、何故か主人は私に触れてくれなくなり、二人目は話し合いで意図的に関係を結んだのが最後で・・・・・・それからは全く関係はなくなりました」 「え?噓~!?旦那さん浮気しているとか!?」 「そうなのかもしれませんね・・・・・・」 「どうしてそんなに他人ごとなの?」 「それは・・・・・・夫に愛されている自信がないからです・・・・・・」 「東雲さん、時には自分から旦那さんに迫ってみてはどうですか?」 「・・・・・・頑張りましたよ。通販で超セクシーなランジェリーを購入して身に着けて見たものの、そこに至るシチュエーションがないのだから。思い切って甘えてみたけれど、疲れているから勘弁してくれといって背を向けられてしまいました・・・・・・それきりです」 「酷い・・・・・・」 「きっと、私は女性としての魅力がないのですね・・・・・・」 笑って誤魔化す葵。 「い~や!嘘でしょ!?東雲さん美人ですし、私から見てもバンバンに魅力的ですから!そんなの聞いたら世の男たちが放っておかないから!私が男だったらむしろ抱きたい!襲っちゃいますよ!」 「ふふふ。そんなこと言ってくれるのは里田さんくらいです。ありがとうございます。もういいんです。私はお母さんでもあるのです。女性としての幸せはとっくに諦めましたから・・・・・・」 「噓でしょ!?いつの時代よ!男なんて旦那意外に星の数ほどいるでしょ!」 「・・・・・・そうですね。星の数ほどいるのですから、里田さん、素敵な彼を早く見つけてくださいね。あなたの幸せを祈っています」 葵はそう言うと里田を見て微笑んだ。 「噓~こんな女性がまだこの世にいたなんて~東雲さんマジ天使~!心が浄化されました。ああ神様、こんなバカな真似はもう二度としません。彼のことはもうどうでもいいです!それより、東雲さんを救ってあげてください!」 葵は、そんな里田を見て愛嬌ある微笑を口元に湛えた。 とその時、隣のカンファレンス室からピッチのコールサウンドが鳴り響いた。 「ん?奥の部屋誰かいる?」 「そういえば、東雲さんが一度ここを離れた時、誰かが隣の部屋にやってきてキーボードを打ち始めましたよ。急に音がしなくなったから、てっきりいなくなったと思ったけど・・・・・・居たんだ」 その頃、仕事を忘れ葵の話にいつしか聞き入っていた桐生。 突如鳴るピッチのコールにビクリと身を竦め、声を潜めて対応していた。 桐生は、偶然聞いてしまった葵の衝撃的な告白に胸をつかれた。 葵が隣部屋を覗いた時、もうひとつの扉がパタンと閉まったとこだった。
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