白衣の戦士 想い 

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白衣の戦士 想い 

 ――トクン・・・・・・トックン・・・・・・ト、クン――  弱りゆく心臓の鼓動は、徐々にその間隔を広げゆっくりと最期の時を刻んでいた。  ここは救急外来の一室。  家族に看取られなが、うつし世に別れを告げようとしている患者がいた。   妻であろうか。患者の手を握り己の頬に押しあて見守る高齢者女性。 「恭二郎さん・・・・・・」  そう呟く女性のつぶらな瞳から、幾重にも零れ落ちていく温かな雫。  それは、冷えた患者の手を温めるかのように優しい雨となって降り注ぐ。  医療従事者の目が気になるのか、女性は何か言いかけては止めてしまう。  子、孫、ひ孫たちは声を押し殺し涙を潤ませその最期(とき)を見守っていた。  脈が伸び、心電図モニターのアラームが鳴り響いた。 「私たちのことはどうかお気になさらずに、患者さんに声をかけてあげてください・・・・・・」 「でも、もう声は聞こえないのではないのですか?」  高齢女性が諦めた表情で訴えた。 「まだ間に合います。心臓が止まっても、直後の患者さんの耳には皆さんの声が届きます。その想いをどうか、言葉にして伝えてあげてください」  驚いた表情で葵の顔を仰ぎ見た女性に、葵は無言で頷いた。 「・・・・・・恭二郎さん、これまでの人生はいろいろあったけれど、共に暮らせて幸せでした・・・・・・私も、間もなくあなたの傍に行きますから、それまで待っていてくださいね・・・・・・」 「おじいちゃんっ!今までありがとう!」 「じいじぃ!」  それまで堪えていた皆の想いが溢れ出す。  その時だった。  心電図モニターの波形が、くっきりとひときわ大きな波形をひとつ示した。 「恭二郎さん!?」 「おじいちゃん!?」  驚いた家族は、葵を見上げた。  悲しみをたたえた眼差しで患者を見つめる葵は、優しい微笑を浮かべた。  ――皆の想いが届いたのですね・・・・・・  葵が病棟に所属しているときのことだった。  その病棟はターミナル患者も多く、最期の時をこの病棟で看取られていく。  本日の受け持ち患者は、前日のリーダー看護師が割り振った患者を担当する。  朝から情報収集する葵。  とある患者情報で手が止まった。 「おはようございます。本日受け持ち看護師の東雲です。宜しくお願いします」 患者に挨拶してまわる葵。  その中に、目の周りが黒く隈どられ、老人の目の光とは思えない程鋭い眼差しで睨む者がいた。  癌のターミナル患者、長谷川雄一だった。  長谷川は夜間不穏状態に陥り、一晩中声を荒げる彼はベットから転倒転落するリスクが高かった。  患者の傍に誰もつくことが出来ない時は、事故のないように家族から承諾を得た体幹ベルトを使用した。 「おい、飲ませろ!誰も飲ませてくれないんだ!」  患者の長谷川は回診にやってきた医師に声を荒げて訴える。  長谷川雄一。78歳、男性。  膀胱がんターミナル患者。疼痛緩和目的にてモルヒネ使用中。  医師からは飲水フリーの指示が出ているが誤嚥が酷く、とても飲水できる状態ではなかった。  だからか、医師の許可がでているにも関わらず、患者に飲水させる看護師は誰一人いなかった。 「何か飲ませてやってよ」  患者のいない場所で再度、医師から飲水指示が出る。 「でも先生、誤嚥が酷くとても飲水できる状態ではありません」  葵は医師に現状を報告した。 「わかっているよ。彼は、いつ亡くなってもおかしくない状態だ。それでも飲ませてやってくれないか?たとえ誤嚥してそれがきっかけで肺炎になろうとも、それが患者と家族の最期の願いだから・・・・・・」 「わかりました・・・・・・」 『私が飲ませたことがきっかけで死なれては困るから、水分はあげないんだ』 とある先輩看護師の言葉が葵の脳裏をよぎった。 「長谷川さん、水分を飲ませますが、もしむせたら吸引しますよ。約束してください」  言ったところで通じる相手ではないと知りながら、尊重したいという思いもあった。ハッキリいって、吸引される側は苦しい。だから、同意なしに無理強いしてまでも吸引は行いたくはなかったのだ。  気管吸引――。  鼻腔吸引、口腔吸引、気管切開部からの吸引がある。気道、気管内にカテーテルを挿入し機械的に分泌物など除去することで、呼吸困難の軽減や肺胞でのガス交換を維持改善を目的とするケア。吸引中、患者は呼吸ができず苦しい。 「サイダー飲みたい」  長谷川はサイダーを好むのか、家族が用意した水分の大半がサイダーだった。   葵は、吸い飲みにサイダーを少量入れトロミをつける。  できるだけ誤嚥を防ぐように、患者を誤嚥予防の体位にし細心の注意を払い全介助にて患者の唇に吸い飲みを含ませた。  ゴク、ゴクッ――  相当喉が渇いていたのだろう。喉を鳴らして飲み始めた。  案の定「ゲホッ、ゴホッ」とむせ返り、ヒューヒューとした気道狭窄音にヒヤリとする。  葵はすぐさま吸引を施行した。 「うわっ!やめろ――!苦しいじゃないか!この馬鹿!殺す気か!」  長谷川は拳を振るって抵抗する。  葵の頬や腕が、長谷川の振るう拳骨に弾かれた。 「この野郎!覚えておけよ!お前を一生恨んでやる!」  葵は、間もなく死を迎えようという患者にキツイ言葉で罵られ心痛めた。  看護記録を見る限り、長谷川は葵が受け持つ日以外、誰からも飲ませてもらえていない。できれば、葵だって飲水させたくはなかった。  それは苦しませる行為でもあった。  飲水させると必ず誤嚥し、吸引する度に患者から拳骨を振るわれ罵られた。  今日も飲水を施す葵の頬や腕に、ジンジンとした痛みが残る。  そっと己の頬に手を添え痛みを和らげる葵。 「・・・・・・」  でもこの時、葵は気づいた。  この感じた痛みこそ『患者の心の痛み』そのものであるということに。 「頼む、飲ませてくれ!最期の願いだ。頼む、この通りだ!」  今日も長谷川に懇願され、葵はサイダーを飲ませた。  むせ込む度に吸引を施行し、いつものように拳骨をくらい罵声を浴びる。 「この野郎!覚えておけよ!お前を一生恨んでやる!」  今や彼の口癖となった。それでも、葵は患者が望む限り飲水させた。  ある日長谷川は意識レベルが低下し、飲水どころではなくなった。  彼は、葵を見るとサイダーを飲みたいと懇願した。 「飲ませてあげることができない」と伝えると、長谷川は弱々しく惨めな目つきで葵を見つめた。  葵は長谷川の願いを叶えてあげたく、せめてもとサイダーを浸らせたガーゼで口腔内を清拭してあげた。  長谷川はガーゼを口に含むと、赤子の様にガーゼに吸いついた。  それから数日後、危篤状態に陥った長谷川。  最期の看取りに家族が病院に向かっていた。  だが、長谷川の心臓は今にも止まってしまいそうだった。  レートが伸びる度に、葵は長谷川に声をかけた。 「長谷川さん、頑張ってください。今、ご家族がこっちに向かっています。皆とお別れの挨拶をするのでしょ?」  すると、長谷川の心臓は再び力強く鼓動を打ち始めた。 「そうです。長谷川さん、頑張ってください!」  葵は長谷川を鼓舞し続けた。  勤務交代時間となり、葵は病棟を後にした。これが長谷川との別れだった。  数日後、病棟に出勤するとナースコール表から長谷川の名前が消えていた。  葵の頭の中で、サイダーが飲みたいと懇願する長谷川の姿が思い出された。 『この野郎!覚えておけよ!お前を一生恨んでやる!』 「・・・・・・」  そう言って睨む長谷川の最期の言葉が、葵の耳から離れない。  葵は、病棟患者の朝のケアをスタッフ皆でまわった。  流しで手洗いしていると、突如水道の自動センサーがドンッと音をたて止まった。    「??」   どれだけ手をかざしても水が出る気配がない。  と、その時だった。  突如、目の前にキラキラとした光が現れ、光は上からクルクルと円を描きながら舞い降りた。  葵は思わず凝視する。なんと、その光の中から患者の長谷川が姿を現したのだ。  葵は目を疑った。  長谷川は葵を優しい眼差しで見つめ微笑んでいた。始めて見る彼の笑顔だった。 「ありがとう・・・・・・」  長谷川は確かにそう言った。 「いいえ、どういたしまして・・・・・・」  つられて、葵も微笑みながらそう答えた。  すると、ポンッと長谷川の姿は一瞬にして消え、水道の蛇口から水が勢いよく流れ出始めた。  ハッとする葵。  葵は窓に駆け寄り、どこまでも果てしなく広がる蒼穹を仰ぎ見た。 「長谷川さん、私が来るのを待っていてくれたのですね・・・・・・あなたのその想い、今届きましたよ・・・・・・」  その眩しいくらい澄み渡った蒼空に向かって微笑む葵は、独りごちた。  透析室での勤務していた頃のこと。  透析する度、問題を起こす患者がいた。  野本隆、73歳、慢性腎不全患者。彼は、週3回の透析治療を行っていた。  野本は透析中に穿刺した針を抜き去り、シャント(動脈と静脈を体内で直接つなぎ合わせた血管のこと)から噴き出た血液が天井まで到達したことあった。  皆はこれを『血天井事件』と名付けた。  またある日は、透析の機械を力ずくで引っ張り、メイン電源を落すという珍事件を起こした強者患者だった。  よっての野本は、体幹と四肢をベルトや紐で拘束されながら透析を行うことになった。  この日初めて受け持ちとなった葵は、いつものように野本に挨拶をした。  しゃべれないのか野本は声を発することはなかった。 「できれば、手足を縛ることなく透析ができればいいのですが・・・・・・」 そう呟く葵に、野本は目をぱちりと瞬きして、返答しているようにも見えた。  その日の野本は何故か穏やかで、葵が穿刺するときも全くと言っていい程抵抗せず目を閉じていた。  そんな野本が何を考えているのか心が読めず、皆は気味悪がっていた。  葵は、そんな穏やかな患者に微笑んだ。 「今日は手足を縛ったりはしませんから、安心して透析を受けてください。その代わり、透析の間私が手を握っていてもいいですか?」  葵の言葉に野本は目を丸くしたが、その瞳が笑っているようにも感じられた。  野本は葵に大きな瞬きをしてみせた。  野本は透析中、安らかな表情でぐっすりと入眠していた。  時間毎に血圧測定するときも、目を開けても抗うことはなかった。  無事透析が終了すると、野本はスタッフと病棟へ戻っていた。  それから、次の透析日。  その日、野本の担当は別の看護師だった。  本日の野本は、入室時から興奮ぎみで拘束しなければ透析ができない状態だ。  葵は、そんな野本に声を掛けに行くと、彼は葵を見るなり大人しくなった。 「野本さん、今日は受け持ちではないけれど、よろしくお願いしますね」  野本は葵をじっと見つめていた。  その後、野本は透析が始まると怒りを露わにし、看護師に唾を吐きかけ噛みつこうとするなどの悪行を働いては困らせ、治療どころではなかった。  人工透析とは。腎臓の代わりに人工腎臓のフィルターを介して血液から老廃物、余分な水分を取り除く治療。  人の体は1日かけて少しづつ血液を綺麗にするが透析は短時間で行うためその変化に体がついて行かず倦怠感、頭痛、吐き気、筋肉のけいれん、傾眠、など様々な症状が出現する。  体内の血液を全て浄化し濾過するのに一回の治療に要する時間は3時間程。  患者は一日おきの透析治療を一生行わなければならない。  これまでの野本の行動から、透析治療を希望していないことが見てわかる。  本人は、『もうこのあたりで人生を終わりにしたい』と考えているのではないだろうか。野本にとっての透析は、苦痛でしかないのだ。  だが無情にも、野本の意思は尊重されることなく透析治療は行われた。  今日も野本は看護師に付き添われ透析にやってきた。  入室時から抗う野本。  そんな野本を見ていて葵は切なくなった。  これは野本の望む生き方ではないのだから。  葵は、せめて自分が関わる透析治療の時間だけでも、野本に心の安寧を与えてあげたいと思った。 「野本さん、本日受け持ち看護師の東雲です。宜しくお願いします。今日も手を繋ぐでもいいですか?」  葵の言葉に、野本は大きく瞬きして答えた。 「不思議だ・・・・・・」と口を揃えて皆は言う。  どうして葵が受け持ちの日は、野本がこんなにも穏やかなのだろうかと。  それは葵にも分からなかった。   それからまた、次の透析の日。   野本は透析室に現れなかった。その日の早朝、彼は天に召されたそうだ。  それを聞いて葵は思った。  彼はやっと透析という拘束から解き放たれ、永遠の自由を手にしたのだ。  その日の晩の入眠時、葵は今日一日の出来事を振り返る。  不意に、野本の顔が頭に思い浮かんだ。  ――野本さん、安らかな眠りにつかれますよう祈りいたします  葵は目を閉じながらそう呟いた。  その瞬間、天から真っすぐにすうーっと何かが降ってきて、葵の顔の真ん前でピタリと止まる気配がした。  ――え!?野本さん??  目を閉じているにも関わらず、満面の笑みで葵を見つめる野本の顔がはっきりと見えた。 「ありがとな・・・・・・」  そう言って、微笑む野本は一瞬にして消えた。  意思疎通が困難な患者であっても、伝えたい想いはあるのだと――  葵はこの時、改めてそう感じた。  葵は一人、ベランダから夜空を見上げた。  澄んだ夜空に瞬く数多の星たち。  葵は星に向かって呟いた。 「言葉を交わさずとも、想いは伝わるのですね・・・・・・」  その時、南の空に一筋の流れ星がキラリと輝いた。
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