白衣の戦士 PTSD ヒステリー

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白衣の戦士 PTSD ヒステリー

闇夜に閃光を放ちながら雷鳴が殷々(いんいん)として遠く聞こえはじめた。 閃光が暗い闇につんざいて一瞬の間周囲を青白い輝きの中に包み、消えたと同時にまた暗い闇にのまれる。 それは窓越しに横たわる者の瞼の内側に届いた。 その者は苦悶の唸り声をあげている。 また雷鳴と共に閃光が走る。 それは徐々に近づいてくる。 「きゃああああああ~!」 突如深夜の寝室に、恐怖に慄く絶叫があがった。 虚空に伸ばされた手は、不確かな何かを掴むかのようにもがいている。 「――い・・・・・・葵!しっかりするんだ!葵!」 葵の隣で眠る夫の一樹は、悪夢に(うな)される葵を揺さぶり起こした。 夢に魘され譫言(うわごと)を発する葵は、まだ悪夢から抜け出すことが出来ない。 一樹は葵を現実に引き戻そうと、震える彼女の身体をきつく抱きしめた。 だが、葵は悪夢の恐怖に打ち震え、幼子のように泣きじゃくるばかり。 「葵、これは夢だ、夢だよ・・・・・・だからもう大丈夫・・・・・・大丈夫だから安心して・・・・・・さぁ、目を覚ますんだ・・・・・・」 一樹は、幼子に言い聞かすような優しい口調で葵の頭を撫でながら言葉を投げかける。 その言葉に安堵した葵の全身から、少しづつ力が抜けていく。 「そうだ・・・・・・もう大丈夫だよ・・・・・・葵・・・・・・」 一樹の声に導かれ現実に引き戻された葵は、まだ夢うつつな状態で彼の顔を見上げた。 「かず君?また怖い夢を見たの・・・・・・凄く怖い夢・・・・・・目の前で・・・・・・でも、夢でよかった・・・・・・」 一樹の胸にしがみつく葵は、まだ恐怖の余韻から冷めやらぬ。 夫一樹の胸に伝わる速い心拍と、ハァ、ハァと息を切らせ肩呼吸する彼女から悪夢の凄まじさが伝わってくる。 結婚して数年、毎晩のように悪夢に魘される葵を一樹は見続けてきた。 その度に、言いようのない深い悲しみに胸が切り裂かれるようだった。 葵の背にまわした腕に力が籠る。 ――ごめんよ・・・・・・葵・・・・・・ 一樹の瞳から、涙の雫がこぼれ落ちていった。 葵はきつく抱きしめる一樹の背に手をまわし、閃光を放ちながら遠のく雷鳴を窓越しに見つめていた。 この春、小学一年生になった葵は新しい友達ができた。 出会った時から二人は意気投合。大の仲良しとなった。 友達の名は長瀬 遥(ながせ はるか)。頬と唇が淡い桃色で、長い艶やかな黒髪、澄んだ大きな瞳。まるでお人形のように愛らしい女の子だった。 その日二人は、街の大通りの一角で待ち合わせをしていた。 「遥ちゃん!こっち、こっち!」 葵は、反対側の歩道から遥の姿を見つけると満面の笑みで大きく手を振った。 それに気づいた遥は、両手を振りあげピョンピョンと大きく跳ねあがり葵に応えた。 その時、けたたましいクラクションが鳴り響いた。 その騒音に葵と遥が振り返ったその時だった。 それは、まるでスローモーションを見ているようだった。 猛スピードで走行してきた乗用車の前に、高齢者の女性が車道へ飛び出した。 乗用車は女性を避けようと急ハンドルを切って、勢いよくセンターラインオーバーし対向車線を法定速度で走行してきた軽自動車に正面衝突した。 まるで落雷のような激しい衝撃音に、葵と遥は反射的にビクリと身を(すく)めた。 乗用車に突っ込まれた軽自動車は、その衝撃で弾かれふわりと宙を舞った。 無情にも、制御不能に陥った軽自動車は、宙を舞いながら遥が佇むその場所へ吸い込まれるかのように飛んでいった。 葵は思わず目を瞑った。 葵が次に目を開けた時、遥の姿が見えなかった。 ざわつく人だかりの喧騒にたじろぎながら、葵は遥のもとに駆け寄った。 「きゃあああああ~!」 絶叫する葵の視界に飛び込んできたのは、車の下敷きになった遥の無残な姿。 「遥ちゃん!遥ちゃん!!」 遥はピクリともしない。 遥の身体から滲み出る血液は、まるで生き物のように地面を伝わりアスファルトをどす黒く染め上げた。 そこには、頭部から流血し両手を真っ赤に染めた少年が、泣きそうな顔をして必死に遥に声をかけていた。 「誰か!誰かー!手を貸してください!車を持ち上げるのを手伝ってください!」 その少年は自らも怪我を負っているというのに、悲鳴のような声をあげ車の下敷になった遥を助けようとしている。 その少年の着ていた白いTシャツが、頭部からポタポタと流れる血液でみるみる真っ赤に染まっていく。 その場に居合わせた人たちの力によって軽自動車は持ち上げられ、遥は救出された。 だが、遥は反応しない。 「遥ちゃん!遥ちゃん!」 葵は、泣きながら遥の名をひたすら呼び続けた。 その少年は葵を見上げた。 葵は少年と目が合うとその場で意識を失った。 大人になった葵には遥との記憶がなかった。 凄惨な事故に遭遇した葵と遥。 幼かった葵の心は、その残酷なまでの現実を受け入れることが出来なかった。 だから、心が壊れてしまわぬように自己防衛本能が働き、記憶を無意識の領域に押しやることで未熟な心を守ろうとした。 幼き葵は、遥のことは夢の中の空想の友達として心の片隅に追いやった。 だが、無意識の領域から潜在意識は毎晩呼び起こされ、悪夢となって現れる。 今宵も葵は絶叫と共に目が覚める。 汗で張り付いたシャツが、悪夢の凄まじさを物語っていた。 あの事故から20年以上経った今でも、葵は悪夢に魘されていた。 葵の潜在意識は、幼きあの頃のまま時が止まっているかのようだった。 ――どうして毎晩同じ夢を見るのだろう。あの女の子はいったい誰? 葵にはその記憶が全くない。 白衣の戦士だって人間である。決して無敵ではない。 人は様々な問題を抱えながら日々生きている。葵も例外ではなかった。 葵は大人になってからPTSDを発症していた。 心的外傷後ストレス障害(PTSD)とは。 命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)をきっかけに、時間が経過した後でもフラッシュバックや悪夢による侵襲的再体験などの症状が持続する状態。 その日、とある患者が救急搬送されてきた。 その患者は青木俊介(あおきしゅんすけ)。妻子持ちの36歳男性だった。 青木は搬送された時から、座位の姿勢を保ったまま微動だにせず目を開いたまま瞬きすらしない。 救急隊の申し送りによると、今朝会社に出勤しないため不審に思った同僚が患者に電話するが繋がらず。会社職員が自宅を訪問すると、放心状態で全く反応しない青木を発見し救急搬送にいたった。患者には妻子がいるが、離婚の話が出ていて家族とは現在別居中、自宅に一人暮らしということだった。 会社の同僚の話によると、患者は子供と離れ離れになったことに酷く落ち込んでいたという。 それにしても患者は、全く微動だにせず、まるで生きた人形のようだった。 「青木さん。青木俊介さん。わかりますか?」 葵は患者の正面から目を合わすように声をかけた。 だが、幾度となく名前を呼び掛けても全く反応せず、患者の目は虚空を見つめていて視線が合うことはなかった。 目はいつから開いているのだろうか。 少なくとも、救急搬送されてきてから40分以上経過している。 葵は患者のすぐ目の前でパタパタと手を振って見せるが瞬きせず、反射すら見られない。 魂がどこかに抜け出てしまっているのだろうか。抜け殻のようにも見えた。 葵は、以前ノンフィクションの戦争ドラマで、これと同じものを見たことを思い出した。 それは、とある兵士が戦闘中に負傷したわけでもないのに、突如目が見えなくなるという話だった。その兵士は患者と同じヒステリ―と診断されていた。 そんなことがあるのだろうか。そう思って見ていたが、本当にあったのだ。 転換性障害(ヒステリー)とは。 身体障害症状の一つ。身体的な疾患が無いのに身体症状が現れる病気。無意識な心の葛藤やストレスによって抑圧さることが要因とされている。また、子供の頃に受けた虐待や育児放棄などが関与していることもある。 この患者は、感覚障害として突如目が見えなくなり、運動障害として身体が動かなくなり無反応症状に陥っていた。 ドラマの兵士は()らなければ殺られてしまう。そんな生死を賭けた戦いがストレスの要因だった。 だが、この患者の場合、一体何がそこまで彼を追い詰めたのだろうか。 少しすると、患者の家族が来院した。妻と5、6歳くらいの男の子だった。 妻に状況を説明すると驚いた様子で「こんなことは一度もなかった」という。 妻が患者に声をかけたが、妻の言葉かけに無反応だった。 その様子を見て心配した子供が、患者の手を握り「おとうさん」と声をかけた。 すると、患者の瞳から一滴の涙が零れ落ちていった。 患者は息子に強く反応したのだ。 「青木さん、わかりますか?息子さんですよ!」 葵の言葉に、患者は病院に来てから始めて瞬きをした。 「そんなに息子と離れることが辛かった?」 妻が夫の顔を覗くように見つめながらそういうと、ボロボロと涙が零れだした。 「うちの人、子煩悩なの・・・・・・息子が可愛くて仕方がないのね・・・・・・」 葵は、なぜかやるせない気持ちになった。 夫婦のことは、その当事者でなければわからない。 この患者にとって、こんなにも愛する息子と別れて暮らすことが相当のストレスだったに違いない。 きっと、患者の育った環境も大きく関与していると思われた。 「息子さんが来てくれてよかったですね」 葵の言葉に、患者は大きく頷いた。 人の心は、見ることも図ることもできないうえに、容易に理解し難いものだ。 同じ事柄を体験したのであっても、人それぞれの感受性が違うのだから。 人の心というものは複雑なもので、ガラス細工のように繊細で壊れてしまいそうな時もあれば、時としてはがねのような強靭な心に驚かされたりもする。 人の心を地球になぞらえて見れば、海よりも深く、宇宙よりもはるかに広大なのだと、葵はそう感じた。 この時葵は、自分が負った心の傷の真相が暴かれる日がやってくることを、まだ知る由もなかった。
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