白衣の戦士 インシデントレポート

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白衣の戦士 インシデントレポート

「あ~どうして繋がらないの~!患者が待ってるのに・・・・・・」 当直となった病棟副看護師長、水谷朱美(みずたにあけみ)は首から下げたPHSを睨みつけた。 「どうかしたのですか?」 葵は通りすがりがてら、水谷に声をかける。 「とっくに桐生先生をコールしたのに来ないから・・・・・・今再コールしているところなんだけど・・・・・・全く出やしない。こりゃあ、二度寝したな~」 「え?そうなんですか?珍しい・・・・・・」 いつもの桐生ならば、コールに出ないことなど一度もなかった。病棟から緊急対応に呼ばれた場合でも、必ず救急外来に連絡をくれるのだ。 「でさ、悪いんだけど・・・・・・桐生先生の休憩室行って起こしてきてくれない?」 「え?休憩室にですか?・・・・・・わかりました。ちょっと様子を見てきます」 葵は院内の仮眠室に向かい利用者ノートを確認する。三番の仮眠室に桐生の名が記載されていた。 葵は、仮眠室の前で佇み番号を確認するとドアをノックする。 コン、コン、コン・・・・・・ 中から返事がない。 「桐生先生、いらっしゃいますか?」 再びノックするが全く応答はなかった。 桐生は部屋に居ないと判断し去ろうとしたとき、ドアが少しだけ開いていることに気づいた。 「桐生先生?いらっしゃるのですか?」 葵は少しだけ扉を開き部屋の中を覗いた。 「?」 葵の視界には、暗室の闇色に染まりきらない影がぼやけて見えた。 葵は、速く目を慣らすため両目を瞑り再び開眼すると目を凝らしよく見た。 網膜が暗順応するにつれて中の状況が徐々に分かってきた。 そこには白衣を着たまま床に座りこみ、ベッドに倒れ伏す桐生の姿があった。 「どうしたんですか!?桐生先生!」 葵はすぐさま駆け寄り、桐生の肩を叩きながら声をかけた。 「うぅ~ん・・・・・・」 桐生は反応したが、眉間に皺を寄せ苦悶の表情を浮かべた。 反応がありホッとした葵。 すると、突如桐生は目を瞑ったままむくりと立ち上がり、そのままふらりと倒れ始めた。 それを見て慌てた葵は、咄嗟に桐生の身体を抱きかかえ転倒の衝撃に備えた。 ドスン・・・・・・ 葵と桐生はそのままベッドに倒れ込み桐生を庇った葵はベッドサイドの壁に頭部を強く打ちつけた。 「痛ったたたた・・・・・・」 桐生の下敷きになった葵は痛みと重みに身動きがとれなくなった。 「・・・・・・ぉい・・・・・・」 桐生は、葵の上に倒れ込んだまま何か呟いた。 「桐生先生?大丈夫ですか?」 桐生の下敷きになりながら彼の顔を覗き込み、声をかける葵。 「う~ん・・・・・・あ、おい・・・・・・」 ――え!?今・・・・・・ 桐生は甘い囁きにも似た声音で葵の名を呟いた。 この状況下に混乱する葵。 「う~ん・・・・・・気持ちいい・・・・・・」 すると、桐生は突如葵の背に腕をまわし抱きしめると彼女の胸に顔を埋めた。 ――えっ!?えええ!? 葵は、あまりにも唐突な出来事に声も出ないくらい驚いた。 葵は、桐生の身体の下から何とか必死に抜け出そうとするが、背中からもロックされ完全に逃げ場を失った。 桐生は何を思ったか、葵の白衣の下にスルリと手を滑り込ませ、彼女の柔らかな胸を揉みしだき始めた。 「えっ!?え!?あっ!き、桐生先生!?・・・・・・やっ、止めてください!」 葵は桐生の腕を掴み抗うが、その手を外すことが出来ない。 その時、桐生の指が葵の敏感な部分を捉えた。 「あっ!んっ!・・・・・・」 葵は、桐生の巧みな手さばきに思わず甘い吐息が漏れ出しピクリと反応した。 「き、桐生先生!?目を覚ましてください・・・・・・どなたかお相手を、お間違えではありませんか!?」 葵は、桐生の肩をパタパタと叩きながら抗った。 桐生はやっと覚醒したのか、葵の胸を揉みしだくその手が止まった。 葵は薄暗い部屋のベッドの上で、胸元から顔を上げる桐生と目が合った。 「・・・・・・」 「・・・・・・?」 桐生は目を見開き驚きの眼で葵を見つめると、葵の上から飛び跳ねるように退いた。 「え!?え?ええ~?ど、どうしてここに・・・・・・き、君がいる!?」 桐生は酷く動揺し取り乱していた。 「桐生先生に何度コールしても繋がらなかったので、起こしてくるようにと言われたからです・・・・・・」 桐生は慌ててピッチの着信履歴を確認した。 「ああ、悪かった・・・・・・寝ぼけていたとはいえ、どうしてこういう展開になったか教えてくれないか!?僕は、君にどんな酷いことした!?」 葵は顔を真っ赤にしながら視線を逸らし、今起こった出来事を桐生に説明した。 「・・・・・・それは、すまなかった・・・・・・セクハラで訴えられても仕方がないな・・・・・・」 内容をきいて酷く落ち込んだ様子の桐生。 「あの・・・・・・どなたかと間違われたということでしょうか・・・・・・」 「え!?ああ・・・・・・そうなんだ。夢に想い人が出てきて・・・・・・つい・・・・・・。本当に申し訳ない!この通りだ・・・・・・」 暗室の中、土下座をする桐生。 葵は、桐生の困惑の表情と態度に故意ではないことを理解した。 「では、私たちは・・・・・・インシデントに見舞われたということですね・・・・・・」 ハッと顔を上げる桐生。 「言っておきますが・・・・・・インシデントレポートの報告は不要ですよ」 葵は、桐生が気にしないように冗談交じりに笑って見せた。 そう言って、足早に仮眠室を退室しようした葵はふと足を止めた。 「それと・・・・・・桐生先生の想い人は、偶然私と同じお名前だったのですね」 振り返る葵は、はにかんで笑った。 その刹那、桐生はスナイパー葵に心臓を射抜かれた。 ――うかつだった・・・・・・寝ボケていたとはいえ、とんでもないことを仕出かした・・・・・・よりにもよって、その名を口にしてしまうなんて・・・・・・それなのに貴女という人は・・・・・・これでは、ますます好きになってしまうじゃないか・・・・・・ 葵が去った後暫く、桐生はその手をじっと見つめた。 そこには、妄想の中でしか触れることが出来なかった葵を、その手に確かなぬくもりとして感じた瞬間だったから。 桐生の仮眠室を飛び出した葵は先程の出来事を反芻する。 偶然とはいえ、自分と同じの名を聞いたこともないくらい甘く囁く桐生の色気ある声音・・・・・・。 胸には、桐生の温もりと感触がいつまでも残っていた。 ドキドキと張りつめる葵の心臓。どうにかなってしまいそうだった。 なんとか鎮めようと、胸に手をあて何度も何度も深呼吸を繰り返した。 頬に帯びた熱がなかなかひいてはくれない。 「あっ、お帰り~ありがとう!桐生先生から今さっき連絡入ったよ。やっぱり寝てたでしょ?」 「はい・・・・・・」 葵は、衝撃的な出来事に興奮冷めやらぬ状態だった。 「どうしたの?ほっぺが真っ赤だけど・・・・・・」 「え、そうですか?そんなに赤いですか?」 指摘され慌てて頬を手で覆い隠す葵。 気づけばすぐ後ろには桐生がいた。 ――今の会話聞こえてしまったかな・・・・・・ 桐生は、葵の顔を一瞥するといつもと変わらぬクールな面持ちで業務を始めた。 桐生は見た目とは裏腹、気分は上々、テンションマックスだった。 頬を朱に染めながらPCキーボードを打つ手が弾み、今宵の夜勤はやたらと楽しかった。 葵の夜勤明けのルーティンは、帰宅後洗濯機をまわしながらシャワーを浴び洗濯を干す。 その後、ペットたちのお世話をして、子供たちが学校から帰宅するまでの三時間程を仮眠する。 今日も寝るにはもったいない程の晴天の下、葵は暗くした寝室のベッドにもぐりこんだ。 家事育児に関して理解ある夫のサポートを受け、共働きが成立している。 物腰が柔らかく温和な葵の夫は、皆からイクメンと呼ばれご近所からも評判がよく、同世代の母親たちから羨望の眼差しを向けられることも多々あった。 葵と夫は世間的には理想の夫婦像として皆の目に映っていた。 だが、実際の夫婦関係は破綻していた。 セックスレスになってからもう何年になるのだろう。下の子の妊娠が最後だからかれこ八年の月日が経とうとしていた。いや、実際はもっとだ。 以前の夫は、毎日のように葵を求めてきたというのに、一人目を妊娠してから身体に触れてもくれなくなった。 二人目の子は、葵が夫に頼み計画的に妊娠したのだ。 そんな夫が、唯一葵を抱きしめてくれることがある。それは、葵が悪夢に魘された時だ。その時の夫は本当に優しい。 自分では夫を満足させてあげることができないのだろうか・・・・・・。 その結果がこれなのだろうか・・・・・・。 自分は夫に女性として映っていないのかも知れない・・・・・・。 葵は、自分は女性としての魅力が無いのだと、そう思うようになっていった。 では、夫の心も身体も満たしてくれているのは誰? 夫は、誰かと不倫でもしているのだろうか。自分が夜勤で不在時に浮気しよう思えばいくらでもできるのだから・・・・・・。 だとしたら、夫はなぜ離婚の話を持ち出さないのだろうか。 慰謝料の問題?それとも、その相手は許されない恋の相手なのかも知れない。 確か夫が若い頃、結婚前提にお付き合いしていた女性がいたと言っていた。 その(ひと)の写真を、夫は今でも大切に持っている。 葵は知らない振りをしてあげているだけ。 言いようのない悲しさが胸にこみ上げてくる。 結婚してから妊娠したことが分かった日の晩、葵は夫の気持ちを確かめたくて質問したことを思い出した。 『ねぇ、かず君に質問ね。もし、昔すっごく好きだったひとにばったり出会ったとする。そのひとから二人きりでどこかで会わない?って誘われたらどうする?その場に私がいなかったとしてだよ。でね、私に言わなければわからない場合の話・・・・・・』 『そうだな・・・・・・会うだろうな・・・・・・』 正直者の夫は悪気なくそう答えた。 その時、葵の胸がチクリと刺されたような痛みを覚えた。 自分は夫の最愛ではなかったんだって・・・・・・酷くがっかりした。 葵はその日から暫く、夫に妊娠の報告をすることが出来なかった。 あの時嘘でもいいから「会わない」と言って欲しかった。だたそれだけだった。 葵は毛布を頭までかぶり、子供のようにうずくまって泣いた。 夜遅くに夫が帰宅した。 葵は夫のために夕食を温め支度した。 「子供たちは?」 「ちょうど眠ったところ」 「そうか・・・・・・」 夫は疲れた様子だった。 「葵、話がある・・・・・・こっちに来てくれないか」 夫のいつもとは違う改まった態度に、何か良くないことと感じた。 「何?どうしたの?改まっちゃって・・・・・・」 ダイニングテーブルに夫と対面して座る葵。 「葵・・・・・・俺たち・・・・・・離婚しないか・・・・・・」 葵の頭の中は一瞬真っ白になった。 「かず、君?どうしちゃったの?急に・・・・・・なんかあった?」 「・・・・・・その方がお互いのためかと思って・・・・・・」 まさかとは思ったが、浮気は本当だったんだとこの時悟った。 胸が抉られたみたいに痛くて、苦しかった。 「それ、本気でそう思ってる?ねぇ、かず君・・・・・・」 「ああ・・・・・・」 「私、かず君の一番じゃなくてもいいよ・・・・・・このままずっとセックスレスだっていいの・・・・・・かず君は好きな(ひと)との関係を続けてくれても構わない・・・・・・仮面夫婦でもいい・・・・・だけど、子供たちの父親でいて欲しい・・・・・・」 葵は、エプロンをぎゅっと握りしめた。 ――私が耐えればいいだけのことだから・・・・・・ 「・・・・・・違うんだ・・・・・・そうじゃない・・・・・・」 「じゃあ、何だっていうの?かず君のいいたいことがよくわからない・・・・・・」 俯く夫は、唇を噛みしめたままそれ以上は何も語らなかった。 葵は居たたまれなくなって、その場から席を外した。 夫からのまさかの離婚話に、ここのところ不眠が続く葵は朝から疲労の色を滲ませていた。 「誰!?このルートからこの薬を接続したの!」 それは、よりにもよって救急外来で一厳しい看護師といわれる沢田さんに発見された。 「私です」 葵は正直に申し出た。 「これインシデントだから!まさかこのルートに接続してはいけない薬剤だってこと、知らなかったとは言わせないから!あなたのミスが患者の命に直結するの!」 患者の前でも容赦なく怒鳴り散らす看護師の沢田は、葵より年下であるが物言いがきつく患者からもクレームがくる程だった。 「はい・・・・・・すみませんでした・・・・・・」 言い訳などせずミスを認める葵。 「インシデントレポート提出して!看護師長さんには私から報告しとくから!」 なんと言っても語気がきついし、顔が怖い。年下の独身女性と思えぬほどの迫力にいつまでたっても慣れない葵。 「はい。今後気をつけます。申し訳ございませんでした・・・・・・」 ミスしたのは自分だ。反論などない。 「私に言われても困るから!謝るなら、患者さんに謝って!」 まさにその通り。ぐうの音も出ない。 「はい・・・・・・」 その後葵は、患者に嘘偽りなく事の状況をきちんと説明し謝罪した。 葵の真摯なまでの対応に、患者は責めることなくむしろ彼女を励ましくれた。 医療の現場はミスが許されない。ミスは患者の命に直結するのだ。 何か実施する際は確認作業を怠ってはいけない。 だが人のすること。環境や体調、その時の心理状態によってはヒューマンエラーが生じることがある。 それを未然に防ぐためにダブルチェックというものがあり、更に時間毎、訪床時、勤務交代毎など複数回に及ぶ確認作業が行われるのだ。 それでも事故が起こることがある。 今回葵の起こしたミスは、実施直後の確認作業の段階で発見された。 ミスはミスである。重く受け止めなければならない。ミスに至った原因を知り、今後二度と起こさないように気をつけるしかないのだ。 気の抜けない医療の現場にも関わらず、今の葵は集中力が欠如していた。 「聞いたわよ・・・・・・あなたらしくもない。なんかあった?」 救急外来看護師長、安曇はここのところ様子のおかしな葵を気に掛ける。 「ないと言ったら嘘になりますが・・・・・・ご迷惑おかけしてすみません。気を引き締めて参ります」 葵は、鏡に映る自分の顔を見つめ、かぶりを振った。 両手で頬を二回叩き喝を入れ、大きく頷いた。
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