ペンペンが語る 慰安婦物語 目次・プロローグ

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目次 プロローグ 第一章 詩織さん事件 第二章 福沢諭吉 第三章 従軍慰安婦 第四章 東京の慰安婦 第五章 証言 第六章 署名偽造事件 プロローグ  1549年8月15日、スペイン、ナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、フランシスコ・ザビエルが鹿児島の稲荷川河口付近に降り立った。ザビエルをここまで案内してきたのは、その2年前に出会ったヤジロウ(アンジロウ)という鹿児島出身の日本人だった。ザビエルは1534年、イグナチヲ・デ・ロヨラ、そしてロヨラの感化を受けた他の5人の青年たちと共に、モンマルトルの聖堂で「モンマルトルの誓い」を立ててイエズス会を創立し、世界宣教に乗り出した。1541年に東洋に向けてリスボンを出発し、インド各地で宣教活動を開始し、それから6年後にヤジロウに出会って日本の地を踏むわけである。薩摩守護大名、島津貴久に謁見して許可を得ると布教活動を開始し、様々な困難にもめげず、山口や大分でも布教活動を続けた。  ザビエルは、この期間に下した日本人に関する高い評価を記載した印象をゴア(インド西海岸)イエズス会メンバーに手紙で伝えている。 「この国の人々は、今まで発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、善良です。驚くほど名誉心の強い人々で、他のなにものよりも名誉を重んじます。武士も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。(中略)武士以外の人たちは武士をたいへん尊敬し、また武士はすべて、その地の領主に仕えることを大切にし、領主によく臣従しています。(中略)人々は賭博をいっさいしません。賭博をする人たちは他人の物を欲しがるので、そのあげく盗人になると考え、たいへん不名誉なことだと思っているからです」 しかし、「善良」を「だまされやすい」、「武士」を「一部の悪官僚」、「領主」を「官邸」に置き換え、行政界の保身にあけくれる姿や現代のパチンコ業界やカジノ誘致活動などを考慮材料に入れると、次のように翻訳できる。 「この国の人々は、今まで発見された国民の中で最高であり、日本人ほど脅威となる人々は、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすいので、たやすくだますことができます。驚くほど名誉心の強い人々で、他のなにものよりも地位や権力、お金を重んじます。一部の悪官僚も、そうでない人々も、貧しいことを不名誉と思い、ひたすら保身に励みます。(中略)一部の悪官僚以外の人たちは一部の悪官僚をたいへん恐れ、また一部の悪官僚はすべて、官邸の邪悪政治家に仕えることを大切にし、官邸の邪悪政治家によく臣従しています。(中略)人々は賭博が大好きです。賭博をする人たちはあっという間にお金を失い、そのあげく平気で借金しようとするので、サラ金といわれる金融会社が大儲けしています」  ザビエル鹿児島上陸の3年後の1552年、医師免許を取得したルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸した。山口でイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に出会い、イエズス会に入会した後、ザビエルの事業を継承して日本で布教を続けていた。自費で乳児院を立てるなど、日本の医療、医学に大きく貢献し、豊後領主の大友宗麟を改宗させた。大友宗麟の許可を得て土地をもらい受け、日本初の総合病院を立てるが、この病院では、呪術的な医療、つまりゼウスの力を頼む信仰へと導く布教活動をより重視していた。  1582(天正10年)、九州のキリシタン大名大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、4名の少年で構成された天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)がローマへ派遣された。一行は2月に長崎港を出発し、1584年8月にポルトガルのリスボンに到着後、ポルトガルの枢機卿やスペイン王など各国の高位の人物に会い、大きなイベントに参加し、ローマ教皇グレゴリウス13世からはローマ市民権を与えられる。 日本宣教に向けたローマ教皇、スペイン・ポルトガル両国の国王への支援の依頼、そしてヨーロッパのキリスト教世界の発展ぶりを見せて少年たちに語らせることによる布教の推進が目的だった。その目的通り、少年たちはキリスト教世界の華麗で荘厳な教会などを目の当たりにして圧倒された。歓迎する側は、イエズス会との綿密な打ち合わせにより、万事遺漏なきがごとくだった。移動時も豪奢な馬車に乗せられて大名にでもなったかのような気にさせられた。 しかし、ポルトガル国内での移動時に、少年使節の一人である千々石ミゲル(正使)は、ある路上で日本人と思われる女性の一団に気づいた。発展した世界を見せつけようとして移動が低速だったため、ミゲルにはどのような状態かはっきり認識できた。百姓の娘たちが粗末な服のまま胸や秘部もあらわにロープでつながれていたのだ。5人や10人ではなく、数10人単位だった。1区画が過ぎて別の路上になってもまた同じような光景が現われた。区画間の距離から計算すると、数千人にもおよぶ可能性も考えられた。なぜこんな所に、なぜこんな状態で…… 気づいたのはミゲルだけだった。ミゲルは日本初のキリシタン大名大村純忠の甥、つまり高い階級の武士の子息だった。それでも彼女らが百姓の娘たちであったことはすぐにわかった。打ち消しがたい疑問を抱きつつ、使命を終えて日本に帰国した。 日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。  九州平定後の1587年6月19日、豊臣秀吉は長崎でポルトガル通商担当者のドミンゴス・モンテイロとイエズス会宣教師ガスパール・コエリョに対し、引見伴天連(宣教師)追放令を手渡し、布教や牛馬の食事に関する禁制に加えて、日本人の中国、韓国、欧州向けの奴隷売買を禁じた。鬼塚英昭氏はその著作『天皇のロザリオ』で「火薬1樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神社仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか」と糾弾している。ルイス・デ・アルメイダは、慈善活動の裏で奴隷商人として活躍していた。また、慰安婦・性奴隷は、自国の女性たちもかなり昔から直面していた問題であり、中国・韓国・東南アジア諸国からの非難を無視することは、いかに歴史認識が浅いかということも証明するだけなのである。  千々石ミゲルは後に棄教した。
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