『君』 ─はじまりの雨の日─

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『君』 ─はじまりの雨の日─

 何日も降り続く雨で、世の中灰色フィルターが掛かっちゃったんじゃないかと思う。理由もなく憂鬱な気分を持て余して歩いていると、場違いな程に明るくて楽し気な声が近付いてきた。 「待てよ!」 「ばっか! 待ったら俺が一番になれないじゃん!」 「俺、傘だから走り辛いんだってば。ズリィぞ!!」 「作戦、作戦!! 早く走るためのカッパなんだよ!」 「傘壊しただけのくせに!」 「それを負け惜しみって言うんですー」  青いカッパを来た小学生と、それを追いかける赤い傘の小学生。言い合いしながら走る足元は長靴で、だけど長靴の上までびしょびしょだった。  二人の声を聞いていただけで嘘みたいに憂鬱な気持ちは薄れて、走る子どもたちが跳ねた水で足元が濡れたことも気にならない。  さっきまで灰色に見えていた世界は、雨で色濃く色づいて、道路沿いの街路樹さえ嬉しそうに見えるんだから、我ながら単純だと目を細めた。  ケラケラと笑い合いながら二人はあっという間に啓吾を追い越して、にぎやかな声も遠くなっていく。  啓吾は、子どもたちに『彼』を好きになった時のことを重ねて思い出した。初めて『彼』を意識したあの日も、今日みたいに何日も続く雨だった。  雨で燻ぶり、重くなった空気。それに重ねて「何で俺だけが」という気持ちが、憂鬱さに拍車をかける。  妻はもう一週間も帰って来ない。右手にはお惣菜の入ったスーパーの袋、左手は息子の和希にぎゅっとにぎられている。  すでに外は薄暗くなりはじめていて、息子を引っ張りぎみに帰り道を急いでいると、ふいに息子が手を引いて止まる。 「何してるの、濡れちゃうから行くよ」  濡れて風邪でも引いたら大変と和希を急かす。 「あそこでお友だちが遊んでる」 「こんな時間に? 子どもはそろそろ帰らないと……」  そう言いながら和希の指さす方を見ると、道向かいの公園入り口で子供が一人、熱心に植木を覗き込んでいる。しかも、雨だというのにカッパもなければ、傘もさしていない。面倒だと思ったが、同じ年頃の子を持つ親として放っておくわけにもいかない。 「知ってる子? この辺のお家?」 「一輝くんて言うの。僕と同じ名前なんだよ。お家は知らない」 「そっか。お母さんいないのかな」 「一輝くん家も、お母さんあんまり帰って来ないんだって。僕ん家と一緒なんだよ」  和希の言葉に俄然、同情が湧いた。あの子の母親も妻と同じように遊び歩いているんだろうか。あの子の父親も、俺と同じように仕事と妻に振り回され、可愛いはずの息子を面倒くさいと思ってしまう罪悪感にへこんでいたりするんだろうか。 「声、かけてみようか」  そう啓吾が言うと「うんっ」と嬉しそうに和希がうなづき、大きな声で一輝くんを呼ぶ。 「かずきくーん! こっちー!!」 「あっ、和希くん」 「何してるの?」 「カタツムリみてるの!」 「カタツムリ!? パパ、カタツムリだって! 見に行っていい?」  キラキラとした瞳で問いかけられて、本当は面倒だけれど「いいよ」とうなづき道を渡った。 「わぁ、本当にカタツムリ」  和希は手を解き、一輝くんの隣に並んでカタツムリを見ている。 「一輝くん、お家の人は?」  こんな所で雨に濡れて子供が一人なんて、家に送って行って文句でも言わないと、といき込んで聞くと「あっこ」と公園横のコンビニを指さした。  思ったより側にいたことに安堵して、なんとかしてやろうと思った自分が恥ずかしくなる。お家の人が来るより先に帰ろうと和希を促すが、カタツムリが楽しいのかちっとも動く気はなさそうだ。和希と「帰ろう」「あと少し」と攻防を繰り返すうちに「一輝」と呼ぶ声が聞こえ、パッと顔を上げた一輝が駆け出す。 「お兄ちゃん! 友達のね、和希くんが来たんだよ」  嬉しそうにまとわりつきながら、高校生の制服を来た少年を引っ張って来た。少年は不審そうに啓吾を見てから、啓吾の陰に隠れた和希に気付いて表情を和らげる。 「こんにちは。一輝と一緒に待っててくれたの? ありがとう」  そう言って『彼』は和希に笑いかけた。その笑顔はとてもじゃないけど、啓吾と同じ憂鬱を抱えているようには見えなくて、思わず見惚れた。 「すみません、見ててもらって」  そう言いながら、啓吾にも申し訳程度に頭を下げる。 「いえ、どうも……」  そう言いながら見た『彼』は一輝と同じでびしょ濡れだった。 「傘は……」  今更無駄な気もするが聞いてみる。 「あー、雨なのに傘忘れちゃって。どうせ濡れるし、走ればいっかなーって。な」 「忍者修行するんだもんねー」 「修行しすぎてコケたもんな、ほら。二つしかないんですみませんが、これ分けてどうぞ」  そう言って一輝と啓吾に温かい肉まんを渡す。 「いや、貰えないよ。君たちの分だろ」  そう言って遠慮していると「はい、兄ちゃん」と一輝が半分こした肉まんを『君』に渡して、啓吾は遠慮しつつも同じように和希と半分こする。  一つしかないものを和希にあげる時、啓吾は我慢して和希に全部あげている。半分こなんていつ振りだろう。全部の方がいいだろうに、小さくなった肉まんを頬張る園児二人は本当に楽しそうだ。「パパも早く食べて!」と和希に催促され「美味しいねぇ。温かいねぇ」と言いながら、みんなで半分ずつの肉まんを共有する。  啓吾は、長いこと『帰って来ない妻の分までちゃんと和希の面倒を見よう』とそればかりで、こうして誰かと何かを共有するなんて忘れていた。  肉まんの温かさが胸に沁みる。  この温かさを、笑顔の綺麗な『君』も共有していると思うと、ふわりと気持ちが高揚した。  くちゅん。  一輝が可愛らしいくしゃみをして、釣られたように『君』もくしゃみをする。 「急いで帰ろうか。やっぱ寒いや」 『君』が一輝に話しかけると同時に、公園に向かって一輝が駆け出す。 「兄ちゃん、修行だよ! 早く走って雨避ければいいんだよ!」 「あっ一輝くん、待ってー!」  一輝くんを追って、和希も走り出す。 「ホントだ! パパ走ると雨に当たらないよ!」  そんなわけないだろうと思うが、楽しそうに笑って走る和希に「そっか、すごいな」と声をかけるだけにする。 「家は近いの?」  啓吾が聞くと「あそこの団地です」と、公園向こうに歩いて10分程の団地を指さす。 「じゃあ、私の家の方が近いから寄って行くといいよ。着替えと傘を貸すから……」  あそこなんだ、と団地の手前の戸建ての集合住宅を指さした。 「いいえ、大丈夫です。すぐですから」 「でも、一輝くんが風邪ひいたら大変だから……、寄って行ってよ」  啓吾は『君』ともう少し一緒に居たくて引き留める。 「和希、家に帰ろう! 一輝くんびしょ濡れだから、家に寄って傘貸してあげよう!」  まずは既成事実と和希に呼びかける。和希と一輝くんは「わーい!」と叫んで「僕の家こっちだよ!」と公園の中をそのまま家の方へと駆けて行く。 「ね」  啓吾はニコリと笑って『君』を誘った。  その時は、こんなに『君』に心を囚われるとは思っていなかったのに──。
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