1 かなと

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 奏人は暁斗が用意してくれたこの部屋が好きだ。少し古いけれど、南向きで明るいし、ベランダが広くていい。奏人はこれまでの人生で、一番高い場所に生活の基盤を置いたことになる。地上7階からの眺めは、天気が良くても悪くても好ましく、広いベランダは洗濯が沢山干せる。  暁斗は物干し竿を片付け、レジャーシートを探し出して来て、ベランダに敷いた。奏人はビールを4缶と柿の種を持ち、ベランダに出た。雲が散ると、ほぼ丸の月が、その神聖な光を地上に降らせていた。 「きれいだね、秋だなって感じがする」  遠い場所から虫の鳴き声が聞こえた。腕を撫でる風は少し温度が低い。奏人はレジャーシートに正座して、柿の種を開封し、皿に出した。さらさらと軽い音がする。  暁斗はレジャーシートに胡坐(あぐら)で座る。背の高い彼は、こういう所作が男らしくて見惚(みと)れる。柿の種の入った皿を二人の間に置き、缶ビールのタブを起こすと、プシッという音が辺りに響いたような気がした。……今この世界に、二人きりでいるような錯覚。 「美味しい」  ひと口ビールを飲んでから、奏人は月を見て呟く。 「秋限定だって、チューハイもこういうの沢山出てた」  暁斗はビールの缶を見ながら言った。月の光が、缶の柄を浮き上がらせ、彼の髪の色を明るく透かす。 「明日チューハイ買って来るよ、いろいろ試そうよ」  奏人は言って柿の種を口に入れた。自分がこの豆入りのお菓子が好きなことを、暁斗はちゃんと覚えてくれている。そのことが嬉しい。 「奏人さん、少し慣れた?」  暁斗が出し抜けに訊いてきた。一瞬何を言われたのか分からなかったが、アメリカから戻ってからのことを指していると理解する。 「うん、ちょっと慌ただしくて……疲れるかな」  奏人はカリフォルニアの大学に、パンデミックのせいで、 3年半も居る羽目になった。修士論文を少し時間をかけて仕上げたが、それでもあと1年早く帰国できる筈だった。奏人を含む留学生たちは、観光どころかろくに買い物にも出られない時期もあった。  ひたすら読書と担当教官とのディスカッションをして、寮に直帰し友人たちとマスク越しに、時間の上限を決めて語らう日々を送っていたため、出勤すれば外回りに打ち合わせという今の生活に、目が回りそうである……週3日しか出勤していないし、留学前に馴染んでいた仕事だというのに。 「あまり力になれないとは思うけど、困ったことがあれば何でも言って」  暁斗に優しい表情で覗きこまれて、奏人は申し訳ない気持ちになり俯くしかなかった。
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