2章 鉛の毒はいかがでしょうか

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 私はエマがそんなことをしてくれるとは思ってもいなかったため、男と同じくその光景を黙って見てしまった。  下に見ていた女に煙草を叩かれたことで、男の顔が赤くなっていき、怒りが沸点を達したようだった。 「メイド風情が何しやがる!」  腕を上げて、エマを殴ろうと振りかぶる。そんなことはさせないと、持ってきていた瓶の蓋を開けて、それを男の顔にかける。 「あへぇ……あわわ──」  ろれつが回らなくなり、まるで糸が切れたかのように後ろ向きで倒れた。間に合ってよかった、と心臓がバクバクと音を鳴らしていた。 「あっ……」  びっくりしたエマが倒れそうになったので、私は後ろから彼女を支えた。  どうやら咄嗟のことで体が勝手に動いていたようだが、麻痺していた恐怖が蘇り、足が竦んだようだ。ホッとすると同時に小言を言わねば気が済まない。 「無茶しすぎよ! こんな男なんて今みたいに倒せるんだから!」 「はは、思わず体が動きました……」 「まったく……でも、ありがとう」  エマがこちらの顔をジッと見てくるので、たまらず顔を背けてしまった。  この子は護身術が使えるわけでもないので、もし私が何も出来なかったら殴られていただろう。疑心に満ちた私の心を熱くさせた。周りの文官たちも急に上官が倒れたことで慌て出した。  今なら私も主導権を握れるので、これを利用しない手はない。 「眠っているだけだから気にしなくていいわよ。だけど、覚えておきなさい。私はここで毒を盛られているの。この男は眠るだけで良かったけど、もし少しでもサボって私の機嫌を損ねるのなら、三日間も昏睡状態にした同じ薬を飲ませて働けないようにしてあげるわ。これでも毒の使い方は上手いのよ」  全員の顔をひと通り見渡して、次に反抗したらどうなるかを脅しておく。  上官がこのように倒されてしまったせいで、一斉に煙草やお酒を片付けて仕事を始めた。バタバタと廊下を走る音が聞こえ、扉から顔を出したのはシリウスとメイド長だった。 「大丈夫か!」  シリウスは私へ近付いて顔をペタペタと触る。  怪我がないかを診てくれているらしいが、昨日のことを思い出して思わず一歩下がってしまった。 「怪我はしてません……そこの無能な上官は先に倒しましたから」 「倒しただと?」  後ろに倒れている上官を見て、信じられないと目を見開き、私と上官を交互に見た。  まさかこんなに分かりやすく大の字で寝ている大男に気が付かなかったのか。 「あまり心配をさせるな……」  また私の顔を触ろうとするが、昨日のことが頭の中で反芻してしまい、また一歩下がって避けた。 「昨日のことは申し訳ございません……」  役目を放り捨てて部屋へと逃げ帰ったのだ。彼にも恥をかかせたことに謝罪をする。  その時、廊下の方が騒がしくなっている気がした。シリウスの舌打ちが聞こえた。 「今は急いだほうがいいな!」 「えっ──」  訳もわからず私は引っ張られる。強い力で手を握られているせいで痛くなってきた。  彼は理由を話さず、私のどこかへ連れて行こうとした。 「離してください!」  何を言っても全く聞いてくれない。それどころかどんどん歩く速度が上がる。 「足が──ッ!」  とうとう足がもつれてしまい倒れそうになった。  するとやっとシリウスの動きが止まったと思うと、私を腕で受け止める。 「すまない。だがここは人目に付く」 「いいえ……きゃッ!」  やっとゆっくり歩いてくれるのかと思ったら私を横向きに抱いて歩き出した。  人目に付くと言ったくせにこれではもっと目立つではないか。廊下ですれ違う人たちがみんな私たちに注目するせいで恥ずかしい思いをするのだった。  シリウスの部屋らしき場所に連れ込まれ、ドアを閉めて私はベッドの上に置かれた。 「いったい何するの!」  やっと自由になり体を起こして抗議した。 「ここなら邪魔も入らないだろう」 「邪魔って──?」 「そんなことはどうでもいい。ずっと昨日のことが気になっていた。どうして俺の部屋に居たんだ?」  彼の言葉を理解するのに時間を要した。 「それは、どういうこと……でしょうか?」 「こちらが言いたいくらいだ。あんな格好で寝室に居るのなら何をされても文句が言えんぞ」  今日悩んでいたことが全て些細なことのように感じられた。  この男から夜に来るように呼ばれたのに、まるで私が望んで行ったと思われているように感じられた。 「貴方が呼んだのでしょうが! わたくしが、どれほど勇気を出して行ったと思っているのですか!」  気持ちが一気に昂り、頭が燃えそうなほど熱くなる。シリウスも私の怒りに慌て出した。 「待ってくれ! 俺が君を呼んだだと?」  他に誰がいるのだ。しっかり私はその場で彼の口から聞いた。 「そうやってシラを切るおつもりなら──」  女として軽く見られるのは我慢がならない。文句を言ってやろうとすると、急に彼は頭を押さえ出した。 「うっ!」  私の横をすり抜けてベッドに倒れて痛みを必死に我慢しているようだった。  偏頭痛でもあるのかと黙って見ていたが、なかなか痛みが治らないようだった。 「ちょっと大丈夫? 痛がり方が尋常じゃ……」  私はそこでテーブルの上の食べかけのスープの皿に目が行く。  それはあまりにも恐ろしいものだった──。 「鉛の皿……もしかして……鉛中毒?」  これまでの言動がちぐはぐだった理由がだんだんと分かって来た。性格が荒々しくなったり、手加減がなかったり、そして記憶の混濁。  ずっと知らずに鉛の皿を使っていたのなら、彼の体は鉛でおかしくなっていてもおかしくはない。 「なんでこんなの飲むのよ!」
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