living doll 序章

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living doll 序章

 夏。アスファルト。  ジリジリとじりじりと照り付ける日差しを受け、地面から陽炎がゆらりと立ち昇る。眩暈のするような暑さ。太陽に照らされじりじりと熱くなったアスファルトの上に、一匹の生き物がいた。  その生き物は、力なくアスファルトを這いずっていた。地面から発する熱から逃れるように、身をよじりながらじりじりと進んでいく。ふと、生き物の前に1つの影が現れた。怯えたように生き物は動きを止める。 「なんでこんなところに虫が? 見慣れない虫だな。キラキラ光ってる。なんだか様子がおかしいけど……地面熱いのかな?」  影が喋った。少年の声。手がすっと伸びた。生き物は身を固くする。人間は恐いものだ、そう教わっていたからだ。しかし、生き物を掴んだ指先は優しく温かかった。そっと生き物を持ち上げ、紫陽花の葉の上に生き物を置いてくれた。 「ここなら大丈夫だろ?」  少年がそういって笑う。 「優輝!」 「はぁい、今行くよ! それじゃ、元気でな!」  女性の声に答えると、少年の影が遠のいていく。生き物は目を凝らす。少年は目の前の建物の中に消えていった。あれが少年の巣なのであろうか。ぼんやりと弱った身体でそんなことを考えていた。  聞きなれた羽音が近づいて来る。生き物は、少年の手の感触を思い出す。優しい、力強い手。その手に抱かれ救われた奇跡を思う。  羽音の主がやってくる。その音は生き物のすぐ横で止まった。 「大丈夫?」 「うん、大丈夫」  言葉にならない言葉を交わし、生き物ははるか頭上の建物を見上げた。その一角に映る少年の影。やはりあそこは少年の巣であったのだ。確信した生き物は羽音の主に告げた。 「私、あそこに行く」  羽音にそっと抱かれ、生き物は自分の場所と決めた建物に入っていった。隙間を見つけ入り込んだ先は、暗闇と光を少しずつ混ぜたような空間であった。もともとそこに満ちていた闇と、側面につけられた格子から差し込む日の光のグラデーションが作り上げた、仄暗い世界であった。  その世界の中、日の光に照らし出されるいくつかの影。横たわった人形、ほこりをかぶった冊子。いずれもそこに置き忘れ去られているのであろう物たち。それらのすぐそばで、小さな繭に包まれていく先ほどの生き物。そのそばに、この空間で唯一動いている羽音の主…ハチが止まる。 「本当に、ここでいいの?」  空間に声が響く。少しハスキーな女性の声だ。使っている言葉は人に理解できる周波数のものではなかった。 「うん、もう決めたの」  もう一つの声。柔らかく耳に馴染む、少女を思わせる甘い声。二つの特殊な声が空間をかすかにふるわせながら交互に響く。 「そう。あなたが決めた事だから、反対はしないけれど」 「ここはきっと暖かい。ここの生き物になりたい。私を救ってくれた、とっても優しいあの人間のそばにいたい」 「生まれ変わるのね。少しの間、お別れね」 「うん、こうなったらいつまでもこの姿ではいられないし。待っていてくれる?」 「当たり前でしょう。その時が来たらすぐに行く。それまで、気をつけてね」 「どれぐらい時間がかかるか、わからないよ?」 「時間なんて関係ない。どこに行こうと、どうなろうと、私はあなたを護る」 「ありがとう」  ハチが羽を広げた。再び空間に羽音が満ちる。 「行くわ。いつでもそばにいるからね。ずっとあなたを待ってる」 「うん」 「皆にも言っておくわ。今はゆっくりお休みなさい」  ハチが飛び去っていく。残された繭は、まるで心臓のように一定のリズムで小さく鼓動を重ねていた。少しずつ。求める姿に近づくように。少しずつ、少しずつ。繭の中のそれは、緩やかに形を変えていくのであった。 「はぁ。随分でっかくなっちゃったなぁ」  朝の光を浴びる一軒の家の屋根の下、小さな格子がつけてある天井裏に続く通風口。そのすぐ横に出来たハチの巣を見上げながら少年がため息をついた。  数か月前、少年の部屋の天井からギシギシと天板の軋む音が聞こえ始めたのだ。気になって音の原因を探ってみると、このハチの巣を見つけたのである。  ハチの巣が出来たから天板が軋むという理由にもならないのではあるが、通風口の横に張り付いたハチの巣はかなり大きく、重さも相当のものなのかもしれない。ましてや少年の家は結構な築年数を誇る古い一軒家である。ガタがきているかもしれなかった。 「どうしたもんかなぁ」  屋根横を見つめ腕を組む。被害があればさっさと駆除を依頼してしまえばいいが、不思議とここに巣をつくるハチは大人しかった。少々派手に出入りをする以外には、ハチ特有の威嚇をするような飛び方もせず、人に近寄ったりもしない。  それがなんとなく健気に感じられて、今ひとつ駆除する気にならないのだ。 「優輝、ご飯よー!」  家の中から活発そうな声がした。優輝と呼ばれた少年は振り返って返事をする。 「はーい、今行くよ!」  そう答えると少年――東間優輝(あずまゆうき)はもう一度ハチの巣を見上げ、そして早足に家の中に入っていった。巣の奥にはそんな優輝を見送る、一際大きなハチの姿があった。優輝が見えなくなると、そのハチもすっと巣の奥に戻っていった。 「優輝、またハチの巣を見ていたの?」  優輝が家に戻ると、家の奥からエプロンをつけたショートカットの少女が顔を出して言った。東間咲(あずまさき)、優輝と同じ高校に通う、優輝の姉である。  去年、父親の海外赴任に伴い両親がアメリカに移住した。その時はまだ中学生だった優輝は、姉と共に日本に残る事を選んだ。理由は単純なものである。外国を見たいという好奇心も特になく、優輝の少ない趣味を満たす上で、海外の地は非常に不自由しそうであったからだ。 「それで、結局あの巣、どうするつもり?」  食卓につくと、咲が優輝に尋ねた。 「ううーん、とくにこれと言って被害も無いし、天井の音は気になるけど、あのままでいいかなって思うんだ。姉ちゃんはどう思う?」 「そうね。確かにあのハチの巣と優輝の部屋の天井の音は関係ないんじゃないかなって思うわ。ハチが家の周りを飛び回るわけでもないし、今のところあのままでいいのかもね」 「ハチたちだって、せっかく作り上げた巣を悪さもしていないのに壊されたくないだろうしさ」 「優輝の部屋の窓のそばなんだし、あんたがそう思うんならそれでいいんじゃない?」 「ん。ありがとう」  そんな会話を交わしつつ朝食を済ませる。咲のお手製の朝食は両親が海外に行ってから毎日のように作られていた。暖かくおいしい朝食だ。優輝も料理は得意であったが、姉の見た目にも美味しい料理には敵わないという気がした。 「ご馳走様! 今日もうまかった!」 「おそまつさま。夕飯はよろしくね」 「おう! 任せといて! んじゃ、学校行く支度してくる!」  朝食は姉の咲が作り、夕食は弟の優輝が作る。東間家の家庭での食事当番は、何かない限りはそういうルールになっていた。  優輝はトントンと階段を登り、自分の部屋に入る。下の方では咲が食器を片づける音が鳴っていた。部屋の壁に掛けてある時計は7時15分を指している。家から学校までは歩いて10分かからない距離である。学校の始業は8時30分。あとは制服に着替えるだけなので、少しゆっくり出来る時間だ。
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