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リフレクトリフレクション
『投影の少年』
【0】
目の前に、男が身を伏して倒れていた。
赤い水溜まりの中で溺れているかのように、小刻みに身体を震わせている。その男を見下ろす影の足に、何かが絡みついていた。目の前の男から零れだしているその何かが足にくっついて、とても不愉快だ。
影は空気を震わす事無く、ため息を吐いた。
初めて行った『それ』は、想像以上に簡単なものであった。ただ、今横で気を失っている彼はそれに耐えられるであろうか。すべては彼のために行った行為だ、しかしそれがまた彼を苦しめる事にもなるであろう。それが影には歯がゆく苦しい。
無表情な顔を少しだけ歪め、唇を噛んだ。痛みも、噛みしめる肉の感触もなかった。彼と同じこの顔に、意味など無い。意味があるのは、影の存在そのものだ。そしてそれはここで倒れている彼のためだけに意味がある。
彼の命に別状がない事を確認すると、影はもといた場所に吸い込まれるように消えていく。そこに映るものは、ありのままの世界か、それとも――
【1】
南向きの窓に、春の日差しが柔らかく降り注いでいた。部屋に暖かな風が流れ込んでくる。窓際に置かれた小さな鉢植えの植物が風になびきながら、その日差しを浴びていた。
不意に強い風が部屋に流れ込む。窓の向かい側に位置するドアが開き、その空間に風が吹き込んだのだ。白いカーテンが揺れる。カーテンには大小いくつかの水玉の模様があしらわれていた。黒い水玉の大きさは不揃いで、中には丸い模様からインクがこぼれたようになっているものもある。
部屋に入ってきた男がおぼつかない足取りで部屋を歩くたびに、古い畳が小さな音をたてる。その足音は部屋の奥、洋服ダンスの横で止まった。埋め込み式の小さな洋服ダンスのそばには、一際大きな姿見があった。小さな洋服ダンスと並ぶと、なんともアンバランスな様相を呈していた。
「ただいま」
姿見の前で男ははじめて声を発した。まだ少年のものだ。その声はどこかかすれていた。かつて少年の母が愛用していた姿見の前で、少年は自分の姿を映しながら喋っていた。
今は亡き母親に話しかけているのか、それとも自分自身に話しかけているのか。きっかけは母を思い出すために語り掛けたことであった。
しかし、時が経つにつれ習慣となっていった鏡に語り掛けるという行為は、母を意識するものではなく、自分自身の心をを維持するためのものとなっていったのであった。
「散々だよ」
かすれた声はどこかくぐもってもいる。鏡に映る少年。シャギーを入れ丁寧にカットしてある髪は前髪を目のあたりまで伸ばし、横の髪は首元に触れる程度に伸びていた。後ろ髪も同じくらいの長さであろうか。
切れ長の目に長い睫毛がかかっている様はどこか憂いを帯びている。あどけなさの残る鼻筋はきれいに通っていた。意思の強そうな真横に閉じられた口。整っていると言えるであろう鏡に映るその顔はしかし、どこもかしこも赤くはれ上がっていた。
唇や切れた額からは赤い液体がゆっくりと流れている。はれ上がった目は瞬き1つするたびにずきりと痛む。大きく溜息をこぼすと、唇の血が畳に垂れ赤いシミを作った。そのシミの辺りには、うっすらと黒い斑点模様が残っている。
畳に点々と残るうっすらと黒い斑点模様。そして風を受け揺れているカーテンにある不揃いな水玉模様。それはどちらもこの少年から流れ出た赤い液体であった。
「この傷、消えるかなぁ……」
少年が鏡に映る切れた額を指でなぞる。指についていた血液で、鏡の自分がわずかに赤く染まった。自嘲するかのように軽く息を吐いた。
なんにも変わらない。いつも通りの事だ。腫れた頬と目蓋も、切れた唇も、鏡の向こうの自分も。口の中に広がる鉄のにおいのようなものも、嫌になるほどにいつも通りだ。
「本当に、嫌になるね」
口の端を吊り上げて無理やり笑う。切れていた唇がさらに裂け、痛みが走る。眉をしかめると動いた額からも痛みが伝わる。
「痛っ」
不意に走った額の痛みに、手で額の傷の横を抑える。だが持ち上げた腕も赤くはれ痛みを訴えていた。Tシャツは首元が破れ、そこかしこに赤黒い色をつけている。骨が折れていないのは不幸中の幸いかもしれない。
「いい天気だなぁ」
投げやりな視線を窓の外に向ける。二階に位置する部屋から見える風景は、住宅街が広がっていた。近くのマンションには布団や洗濯物が干してある。この天気なら、きっと気持ちよく干せるであろう。たっぷりとお日様のにおいをさせて、触れる人を笑顔にするだろう。
今日は天気が良かったから、洗濯物が気持ち良いね。そんな会話が交わされるのかもしれない。
子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。この声はきっと団地の中にある公園から響いているのだろう。近所には親子で暮らしている家庭が多い。別段親しい付き合いがあるわけではないが、休日に外に出ると仲睦まじい親子連れをよく見かけたものだ。
目に見える洗濯物たちや聞こえてくる子供たちの声に、少年は暖かい家庭を想像する。
子供たちは泥だらけで家に帰ってくるのであろうか? お母さんはそれを軽くとがめるであろうか? それとも笑顔で迎え入れるのだろうか? 家の中にはいいにおいがしていて、夕飯が出来ているに違いない。夕飯のメニューに子供たちは一喜一憂し、父親は仕事あがりにテレビの前で一息ついている。
ありがちで、少し古いかもしれない団らんのイメージ。血だらけの自分とは遠い世界を思い描く少年の耳に、ぎしりと階段が軋む音が響いた。
一瞬で背筋が凍る。思い描いていたはずの幸せな家庭などは消え失せ、動物的な恐怖が心と身体を支配した。階段の方向に向けられた目は警戒する小動物のようにせわしなく動く。静かだった呼吸は大きく乱れ、心臓が張り裂けんばかりの鼓動を打つ。
「浩成! 浩成ぃ!」
大きな怒鳴り声が少年……柴咲浩成(しばさき こうせい)の名を呼びながら近づいて来る。浩成の足が無意識に震えだす。大きな音を立て階段を登ってくる足音は浩成の父親、柴咲康明(しばさき やすあき)のものだ。
康明はもともと温厚で優しい人間であった。怒るという事をほとんどしない、物静かな子供として育ってきた。それでも、躾けの一貫として幼い頃数度、暴力ともいえぬ暴力を受けてはきていた。
だがそれはあくまで教育であり、そこには確かに親としての教えと愛情があった。今血まみれになっている暴力とは、似ても似つかないものである。
二年前に浩成の母親、康明にとっては妻である柴咲灯(しばさき あかり)を事故で亡くし、父康明は変わってしまった。傷心から仕事も手につかなくなった康明は、いつしか仕事も干され会社でも居場所を失った。
妻を亡くした身を切るほどの寂しさに加え、社会に居場所の無い悔しさと無力感が康明をむしばんだ。康明は行き場の無いそれらの感情は、全て息子である浩成に向けた。
仕事にも行かなくなった康明は、昼間から酒を飲み、事あるごとに浩成に暴力を振るうようになったのだ。箸の持ち方がおかしい、口の利き方がなっていない……。
最初のうちはこじつけで存在していた理由は、半年もすれば消えてなくなった。それから今に至るまで、酒臭い康明の酔って呂律の回らない、言葉にならない言葉とともに暴力を振るわれる事が、浩成の日課であった。
今にも階段を登り終えようとしている足音を聞きながら浩成は思った。どうしてこうなってしまったのか。康明は、浩成にとって母を失った悲しみを共有出来る、ただ一人の人間であったはずだ。しかし、妻を失った康明が浩成に向けた感情は親としての慈愛でも、家族としての労わりや思いやりでは無かった。
憎悪。恨み。そして敵意。泥酔し、浩成の顔の形が変わるまで彼を殴り続けた康明は吐き捨てるように言った。
「お前のその顔は不愉快だ」
切れ長の目、通った鼻筋、線の細いシャープな顎のライン。浩成を形作る顔のパーツ、いや全身の骨格は母にそっくりであった。康明は、それが許せなかった。いや、受け入れられなかったのだ。
浩成を見れば、嫌でも思い出される先立ってしまった愛する妻。浩成をどんなに慈しもうが、愛そうが、妻が戻るわけではなかった。そのくせ、浩成の姿は何度となく妻を康明の視界と脳裏に呼び覚まさせる。それは辛く苦しく、どうしようもなく悲しかった。
潰されそうな感情は、いつしか燃えるような怒りになっていた。浩成の顔を見るたびに、康明は心をえぐられるように痛んだ。ある日康明は、その心の痛みを浩成にがむしゃらにぶつけた。適当な理由をつけ、何度も何度も浩成の顔を殴り続けたのだ。浩成の顔が腫れて血に染まり、妻の面影が消えると、嘘のように気持ちが落ち着いた。
顔をひどくはれ上がらせた浩成は、家庭だけではなく学校でも居場所を失った。その尋常ではない暴力の跡はクラスメイトには恐れられ、遠巻きに同情された。
哀れむ視線に耐え兼ね、浩成はあまり学校に行かなくなった。かといって、家にもあまり居たく無かった。しかし腫れ上がった顔で出歩く事も結局出来ず、補導された挙句に担任に泣きついた。
見かねた学校の担任が家に連絡をしたものの、それは康明の怒りに油を注ぐことにしかならなかった。担任は熱心に浩成を救おうとしてくれていたが、そんな抵抗も何1つ成果を生むことは無く終わる。
「義務教育でもないくせに、家庭の方針に出過ぎた口を叩くな!」
酔って顔を真っ赤にした父が担任を何度も罵倒する姿を、浩成はただ見ているしかなかった。担任は浩成に力になれない事を詫びた。
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